第二話 ~肉泥棒は泥に落ちる~
リンの足が土を蹴った。
「っ!」
結人は剣を構える。
速い。
分かっていたはずなのに、紅い影が一瞬で懐へ入る。腕が振り上げられ、爪が迫った。
「危なっ!」
結人は剣を横にして受けた。がつ、と鉄とは違う鈍い衝撃が腕へ走る。
「重っ……!」
小さな身体から出たとは思えない。結人が押し返すより先に、リンは剣を蹴った。
「うわ!」
体勢を崩した結人の肩を踏み台に、リンが跳ぶ。
「ご主人様、上です!」
「上!?」
見上げたときには、もう遅い。
頭上の枝から、リンが落ちてくる。
「なんでそんなところに!」
結人は横へ転がった。
どん、とリンの足が土を抉る。
「……本当に人間?」
『土狼族じゃろうな』
「あぁ~異世界あるあるのやつな!」
結人が剣を構え直すと、リンも低く腰を落とした。
「返さないの」
「何を?」
「肉!」
「まだ言ってるの!?」
「リンのなの!」
「もう食べ終わってただろ!」
リンが動く。
今度は真正面から来る姿を、結人も見ていた。
「来る!」
一歩、二歩。
速い。けれど、最初ほどではない。
「……?」
結人は剣を振らず、進路だけを塞ぐ。リンが右へ動けば右へ、左へ動けばそちらへ剣を合わせた。
「む」
「今度は見えてる」
リンが耳を伏せて踏み込む。結人は剣の腹でその腕を受けた。
「っ!」
重い。
けれど、今度は間に合った。
「何だ?」
リンは後ろへ跳び、木の幹を蹴って斜め上へ飛ぶ。
「また上!」
結人は視線を外さずに追う。枝に着地したリンは、すぐ次の枝へ跳んだ。
見える。
「速いけど……」
『あやつ相当な手練れよのう』
「そうなの?」
結人はリンから目を離さない。
「俺には、速いのと森の動きに慣れてるくらいしか分からないけど」
『今のお主ならそう見えるだろうな』
リンが木の幹を駆け下りる。結人は正面へ剣を置いた。
十分に速いが、追えないわけではない。
最初の動きだけが、明らかに違う。
「ご主人様」
少し離れたところから、アイリスの声がした。
「何か気づいた?」
「まだ……」
アイリスはリンだけを見ていた。
結人が受けるとリンは退き、木へ、枝へ、地面へと移っていく。
木の根も、幹も、枝も、岩も。平らな地面だけでなく、その全部がリンには道になっていた。
「森はリンの一部なの!」
「さっき聞いた!」
「だから遅いの!」
「うるさい!」
リンが太い幹を蹴り、横から結人へ飛び込む。
「そこ!」
結人が剣を合わせると、リンは空中で身体を捻った。
「え」
刃の横をすり抜けられ、肩に衝撃が走る。
「ぐっ!」
結人がよろける間に、リンは着地し、そのまま木へ向かった。
「ちょっと待て!」
『待つわけなかろう』
「知ってる!」
◇
剣では勝てない。
結人はそれだけは早々に認めた。
剣の腕は、一昨日ようやく鶏に勝った程度。相手は森を三次元に走る狼少女だ。まともに斬り合えば、こちらが先に倒れる。
「じゃあ」
結人は剣を少し下げた。
「魔法」
『何をするつもりじゃ』
「まだ考えてる」
『考えてから言え』
「考えながらやるの!」
向かってくるリンへ、結人は手を向けた。
「風!」
弱い風が真正面へ吹く。
「そんなの当たらないの!」
リンは横へ動き、簡単に避けた。
「だよな」
「?」
結人はもう一度、今度はリンの進む先へ風を送る。
「邪魔なの!」
紅い少女が跳び、木の根を越えた。
「なら」
もう一度、足元へ。風が落ち葉を巻き上げる。
「っ」
リンが目を細め、ほんの少し速度を落とした。
「効いた!」
『目潰しを喜ぶでない』
リンが睨む。
「ずるいの!」
「肉盗んだやつに言われたくない!」
結人はリンに直接当てようとするのをやめ、風で行き先を塞ぎ始めた。
右へ向かえば右へ風を送り、左へ逃げれば、そこにも。
「うざいの!」
「褒め言葉として受け取る!」
リンが木へ登る。
「上なら!」
結人も見上げ、枝の位置から降りてくる場所を予想した。
「そこだ!」
着地点へ風を送る。
「甘いの!」
リンが途中で別の枝へ手を掛けた。
「そんなのあり!?」
そのまま身体を振って一回転し、別方向へ跳ぶ。
「ご主人様、後ろへ降ります!」
「ありがとう!」
結人が振り返った。
「――あ」
いない。
『結人、右じゃ』
「っ!」
間に合わない。
紅い影が目の前へ飛び込み、結人の肩を押す。
「うわっ!」
結人が地面へ転がった。
「今の……」
最初と同じ速さだった。
ほんの一瞬、見失った直後。
「ご主人様」
アイリスの声は、いつもより少しだけ鋭かった。
「どうした?」
「もう一度、お願いします」
「何を?」
「リンさんを見続けてください」
「……?」
「できるだけ、目を離さないでください」
結人は意味が分からないまま、リンを見る。
「分かった」
リンが走り出す。枝へ跳べば見上げ、幹の裏へ向かえば、結人も回り込んで視線をつないだ。
「……」
速い。
でも、消えない。
「アイリス」
「はい」
「これって」
「もう少しだけ」
リンが地面へ降り、結人へ向かってくる。結人は剣で受けて退き、横へ動くリンを目で追った。
「ご主人様」
「何?」
「少し確かめたいことがあります。すぐに避けられるよう、構えていただけますか」
「……分かった」
結人は剣を身体の前へ置き、膝を緩めた。
「あちらの木の上に何かいます」
「え?」
結人がそちらを見る。
「いません」
「は?」
視線を戻すと、リンの姿がない。
「後ろです!」
アイリスの声と重なって、地面が鳴る。
結人は前へ飛んだ。爪が服の背を掠める。
「アイリス!」
「申し訳ありません!」
「いや、分かった!」
結人が振り返ると、少し離れたところで、リンが不満そうにアイリスを見ていた。
「嘘ついたの」
「申し訳ありません」
「アイリスが嘘ついた……」
「そこですか?」
「いや、ちょっと珍しくて」
「今はリンさんを」
「はい!」
結人がリンへ視線を戻すと、アイリスが確信したように言った。
「ご主人様が見続けている間は、姿が消えるほどの速さにはなりません」
「俺が見てる間?」
「はい。今まで急に距離を詰められたのは、すべてご主人様がリンさんから目を離した直後です」
「……」
結人はリンを見据えたまま問いかける。
「そういうこと?」
「知らないの」
即答。
けれど、耳が僅かに動いた。
「目を離した瞬間に使ってる?」
『その可能性は高いな』
フィリアが答えた。
「瞬間移動みたいな魔法?」
『違うな。アレは種族特有の身体強化の類いだろう』
「身体強化?」
『おそらくは、相手の意識から外れた一瞬へ力を集中させておる』
「そんなことできるの?」
『できる者はおる。あやつは特に適性があるのだろうな』
「ほんと何でもありだな!」
フィリアはアイリスに関心を示す。
『それより、よく気づいたのう』
アイリスがほんの少し目を伏せた。
「見ていただけです」
『見るだけで拾える者ばかりではない』
「……ありがとうございます」
「二人とも!」
結人が声を上げる。
「俺まだ戦ってる!」
『知っておる』
「ご主人様、前です!」
「そっち先に言って!」
◇
仕組みは分かった。
でも、勝てるわけではない。
「どうすんの、これ」
結人はリンから目を離さずに呟いた。
見続ければ、あの異常な加速は封じられる。
ただし、普通に速い。
「……困ったな」
リンが右へ動けば、結人も身体を向ける。左へ、また右へと目で追い続けた。
「目、離さないの?」
「離さない」
「面倒なの」
「こっちの台詞!」
リンは木へ跳び、枝から枝へと移る。結人も見上げて追い続ける。
「首が痛い!」
『頑張れ』
「雑!」
アイリスが少し離れた位置から見ていた。
「ご主人様」
「何?」
「リンさん、着地したあとに踏み直すことが増えています」
「疲れてる?」
「そうかもしれません。最初は、止まらずに次の枝へ移っていました」
結人も注意して見ると、確かに呼吸が速い。動きも少しずつ荒くなっていた。
「……腹減ってたもんな」
リンの耳が動く。
「何なの」
「いや」
「馬鹿にした?」
「してない」
リンはまだ戦う気だ。けれど、このままでは長く続きそうにない。
「じゃあ」
結人は少しだけ剣を下げた。
「もう終わりにしない?」
「そっちが帰れば終わるの」
「さっき帰ろうとしただろ。もう飛びかかってこない?」
「……信用できないの」
「こっちも、背中を向けた途端に来られるのは困るんだけど」
リンが身体を沈めた。
「なら」
来る。
「動けなくするの!」
結人は目を離さない。リンが右へ、左へ、また右へと走る。
速い。でも、見えている。
「……あれ?」
結人は、ふと思った。
視線を外せば、あの加速を使う。
なら、使わせる場所をこっちで決められないか。
「アイリス」
「はい」
「縄ある?」
「ございます」
「出せる?」
「今ですか?」
「今」
アイリスが荷物へ手を伸ばすと、リンの目が一瞬そちらへ動いた。
「よそ見!」
「してない!」
結人はリンだけを見ていた。
「ご主人様」
「何?」
「出しました」
「片方の端、こっちへ」
結人はリンから目を離さず、空いた手で縄の端を受け取った。
「もう片方は持ってて。少し斜め後ろへ下がってくれる?」
「はい」
アイリスが数歩下がる。
縄は、二人の間で緩く垂れていた。
リンが警戒する。
「何するの」
「さあ?」
「怪しいの」
「お互い様」
結人は一歩、後ろへ下がった。
リンがついてくる。
もう一歩。
足元の土が、柔らかく沈む。
さっき転がったとき、手をついた場所だった。
木陰に水が残り、ぬかるみは結人の背後まで続いている。
その先には、低い斜面。
結人は泥の縁へ足を移した。
「なるほど」
『何か思いついた顔じゃな』
「顔見えるの?」
『長い付き合いじゃ』
「まだそんな長くないよ」
リンが焦れた。
「何ぶつぶつ言ってるの!」
「ごめん」
結人はリンから目を離さず、わざと剣先を少し下げた。
「じゃあ、来い」
「……」
灰色の目が細くなる。
「後悔するの」
リンが走り出す。速度を上げてくるが、まだあの異常な加速ではない。結人は正面から見続け、右へ、左へと動く姿を追った。
そして、自分から目を逸らした。
「今」
足元のぬかるみへ視線を落とす。リンが視界から消える。
来るのは、正面。
「風!」
横から弱い風を当て、踏み込む脚をずらす。
そのつもりだった。
だが、リンは直前に進路を変えていた。
結人の脇へ回り込むように、斜めに踏み込んでくる。
「っ!?」
脚を狙った風が、斜め後ろから身体を押した。
「え」
リンの身体が、さらに加速した。
「は!?」
『馬鹿者! 進む方へ押してしもうた!』
「そんなつもりじゃ!」
紅い影が、結人の横をすっ飛んでいく。
「わあああああっ!?」
リン自身も、制御できていない。
「リン!」
進行方向には、ぬかるみ。
その先には、低い斜面がある。
「アイリス!」
「はい!」
二人が、緩ませていた縄を引き上げる。
リンの身体が縄にぶつかった。
「わっ!」
反射的に伸ばした腕が絡み、リン自身も縄を掴む。
重い衝撃が、結人の手へ走った。
剣を放し、両手で縄を握り直す。
「引いて!」
二人で腰を落とした。
勢いを止めきれない。
それでも、リンの進路が曲がる。
斜面へ抜けるはずだった身体が、ぬかるみへ落ちた。
どぼっ。
「……」
「……」
「……」
一瞬、森が静かになった。
「取れた?」
「たぶん」
泥の中から、紅い耳がゆっくり出てくる。
「……」
リンが顔を上げた。
髪も、服も、顔も。
全部、泥だらけ。
「……結人」
「はい」
「殺すの」
「悪かった」
◇
捕まえた。
そこから、さらに一悶着あった。
「離すの!」
「離したら殴るだろ!」
「殴るの!」
「だから離せない!」
結人は泥の中で、リンの両腕を押さえる。
「ご主人様、右腕!」
「無理!」
「噛むの!」
「噛むな!」
がぶ。
「痛っ!」
『見事に噛まれたのう』
「見てないで助けて!」
『実体がない』
「こういう時は便利じゃないやつ!」
「離すのー!」
「暴れるなって!」
暴れるたびに泥が跳ね、結人もあっという間に全身泥だらけになった。
最後には、さすがのリンも完全に息が切れた。
「……」
「……」
二人は泥の中で、荒い呼吸を繰り返していた。
「もう」
結人が言う。
「終わりでいい?」
「……嫌なの」
「まだやる?」
「……」
リンの腹が鳴った。
ぐうううう。
「……」
「……」
アイリスも黙っている。
フィリアも、何も言わない。
「……聞いた?」
「聞いてない」
「絶対聞いたの!」
「聞いてないって」
「アイリス!」
「わたくしも、何も」
「みんな嘘つきなの!」
リンの顔が、泥の下で真っ赤になった。
結人は噛まれた腕をさすりながら、ようやく少しだけ笑った。
「とりあえず」
泥だらけの肉泥棒を見る。
「話くらいは、できそうだな」
「しないの」
「まず腹どうにかしよう」
「いらないの」
腹が鳴った。
「……」
「……」
「今のも聞いてないから」
「言うななの!」
肉泥棒との初戦は、勝ったというにはあまりにも泥だらけの結末になった。




