第一話 ~骨付き肉は森で盗まれた~
森へ入ると、街道の空気が変わった。
頭上では枝葉が重なり、朝の光を細かく砕いている。
足元の湿った土には木の根がのぞき、落ち葉が散っている。ところどころに、名前も知らない草が伸びていた。
「……道はあるんだな」
結人は周囲を見回した。
森の中へ伸びる街道は、荷車が一台通れる程度の幅がある。
昨日までの道ほど歩きやすくはないが、完全な獣道というわけでもない。
「ご主人様」
「うん?」
「先ほどから、足元より周りをご覧になっている時間の方が長いです」
「そんなに?」
「はい」
言われて。
結人は視線を下げた。
ちょうど木の根が、道を横切るように土から盛り上がっている。
「……気をつけます」
「お願いします」
「ほんとアイリスはよく見てるな」
『何を当たり前なことを言っとる』
「当たり前が難しいんだけどな」
「ご主人様は注意が散漫ですので仕方ありません」
「アイリスまで!?」
『そうじゃな。ほれ、諦めよ……二対一じゃ』
「こういう時は特に息ぴったりだよな、お前ら」
返事の代わりに。
アイリスが小さく笑った。
◇
森へ入ってから。
結人は何度も足を止めそうになった。
見たことのない花。
妙に大きな茸。
青い羽を持つ小鳥。
枝から枝へ飛び移る、尾の長い小動物。
「異世界なんだよなあ」
『今さら何を言うておる』
「街の中だと、意外と忘れそうになるんだよ」
魔法も魔物も、この世界の制度も、知らないことばかりだった。
それでも、宿で起き、買い物をして、誰かと食卓を囲む。
そんな暮らしを重ねるうちに、街の景色には少しずつ慣れてきていた。
「森に入ると、知らないものばっかりで新鮮だよ」
『だからといって、何でも触るでないぞ』
「毒とか?」
『毒草もある。痺れるものもある。触れただけで肌が腫れるものもな』
結人の手が止まった。
ちょうど。
道端に生えた丸い葉へ伸びかけていたところだった。
「……これ?」
『知らぬ』
「知らないんかい」
『知らぬからこそ触るなと言うておる』
「それはそうなんだけど」
結人は素直に手を引っ込める。
少し前では。
アイリスが街道と周囲を交互に確認していた。
「受付の方からも、森では街道を大きく外れないよう言われています」
「魔物が出るから?」
「それもございます。足場や植物についても、慣れないうちは街道沿いの方が安全だと」
「了解」
結人は腰へ手をやった。
そこには。
一昨日手に入れた、普通の片手剣がある。
何の変哲もない剣。
実戦で使ったのは、剣を持った鶏を三匹倒したときだけだ。
まだ、腰にあるだけで安心できるほどの自信はない。
『最初に握ったときよりは、ましであろう』
「ほんのちょっとね」
『そのほんのちょっとを積み重ねるしかあるまい』
「そうします」
「この先も、しばらく森でしょうか」
アイリスが尋ねる。
『街道を進む限りは、しばらくこの景色が続くじゃろうな』
「フィリア、道分かるの?」
『大まかにはな。細かい地形までは期待するでないぞ』
「じゃあ街道から外れないのが正解か」
『そういうことじゃ』
それだけ確認して、三人は先へ進んだ。
少し離れた木の上。
葉の陰から、紅い狼耳が二つ、ゆっくりと顔を出していた。
三人は、まだ気づいていなかった。
◇
昼前。
「この辺で休もう」
結人は街道脇の開けた場所で荷物を下ろした。
道から離れすぎていない。
周囲も見渡せる。
背後には大きな木があり、少し離れたところには細い沢も流れている。
「ここでよろしいですか?」
「うん。周りも見えるし」
『悪くなかろう』
「フィリア判定も合格」
『わらわは採点係でないぞ?』
「そう言わないでくれ。俺としては命が懸かってるんだから」
皆の意見が一致した所でアイリスは荷物を下ろした。
「では、お昼にいたしましょう」
「そうだな」
結人は旅鞄を開いた。パン、水、乾燥させた果物、チーズ。そして――
「今日の主役」
包みを一つ取り出して開くと、香辛料の匂いが広がった。
中には、焼いて保存処理された骨付き肉が入っていた。
『ほう』
フィリアの反応が早い。
「今ちょっと声音が変わったぞ?」
『気のせいじゃ』
「いや、絶対肉見て変わった」
「ロースターソルジャーのお肉でしたね」
アイリスが言った。
「そう」
結人は肉を持ち上げる。
見た目だけなら。
普通に美味そうな骨付き肉だ。
けれど。
一昨日の光景が、まだ頭に残っている。
「こいつ、剣持って走ってくるんだよな……」
『焼けばただの鶏肉じゃ』
「そう簡単に割り切れるものでもないのだが……」
『あの時、食われかけたのはおぬしの方じゃろう。食うか食われるかじゃ』
「そういうのは勘弁してくれ」
「一昨日のことはもういいではないですか。三匹とも、ちゃんと倒せました」
「一匹には逃げられたけどね」
「あれは追いかけなくて正解です」
「あぁ。アイリスが止めてくれたからな」
結人が言うと。
アイリスは少しだけ目を逸らした。
「覚えていてくださったのですね」
「当たり前だろ?」
「そうですか」
ほんの少し。
嬉しそうだった。
『それより結人』
「何?」
『肉』
「まだ食べないよ」
『なぜじゃ』
「手を洗ってない」
『わらわには関係ない』
「俺にはある」
『なら早う洗え』
「食べ物絡むと急に神様っぽさ無くなるよな……」
◇
懐中時計を胸元に収め、結人はアイリスと沢へ向かった。
手を洗って戻り、荷物の前へ並んで座る。
結人はパンを取り出し、チーズを置いて、骨付き肉へ手を伸ばす。
「……あれ?」
「どうされました?」
包みがない。
さっきまで、確かにここへ置いてあった。
「肉がない」
「え?」
『何じゃと!?』
フィリアの声だけ、妙に深刻だった。
「いや、さっきここに置いたよな?」
「はい。わたくしも見ています」
「風で飛ぶような重さじゃないよな」
『肉が自分で歩いたとも思えぬ』
「当然だ」
結人は周囲を見る。
街道。
木々。
人影はない。
「動物かな」
「包みごと持っていかれていますね」
アイリスが、肉の置いてあった場所へしゃがむ。
「器用だな」
「それと、ここです」
地面を指した。
結人も覗き込む。
湿った土に、小さな足跡が残っていた。
かかとの丸みと、足の指の跡。
少し先にも、同じ形の跡がある。
「……裸足?」
「そう見えます」
「子供くらいか」
「たぶん」
二人で顔を上げる。
「誰かいる?」
結人が声を掛けた。
返事はない。
「食べ物が欲しいなら――」
「ご主人様」
アイリスが上を向いた。
「何?」
「あちら」
枝が揺れた。
「……動物?」
『いや』
フィリアが言う。
『今、耳が見えた』
「耳?」
『紅いのが二つじゃ』
「赤い?」
結人は木々の葉へ目を凝らしたが、何も見えない。
「もういない?」
「隣の木です」
アイリスが言った。
「枝が動きました」
「どこ?」
視線を移すと、一瞬、紅い何かが見えた。
「いた!」
その直後、上から影が落ちてきた。
「うわっ!」
結人は反射的に一歩下がる。
軽い着地音。
少女だった。
少女だった。
小柄な身体に紅い髪。頭には同じ色をした狼のような耳があり、腰の後ろには紅い尾が伸びている。
灰色の瞳が、結人とアイリスを警戒するように見ていた。
そして、その手には。
「俺の肉」
さっきまでそこにあった骨付き肉は、既に一口食べられていた。
「……」
少女の口が動く。
もう一口。
「いや、食べるんかい」
さらに、一口。
「ちょっと待って。それ俺たちの昼飯だから」
少女の耳がぴくりと動いた。
「もうリンのなの」
「リン?」
少女がはっとする。
『リンというらしいのう』
「自分で言ったな」
「何をぶつぶつ言ってるの?」
「こっちの話だから気にしないでくれ。……っとそうだ、俺は結人でこっちはアイリスな」
「聞いてないの」
「俺だけ名前知ってるのも変だろ」
リンには、フィリアの声は聞こえていない。
結人が一歩近づく。
「とりあえず、その肉――」
リンが下がった。
「取らないで」
「いや、元々俺のなんだけど」
「リンが取ったの」
「それを普通は盗んだって言うんだよ」
「取られる方が悪いの」
「すごい理屈だな!」
『いや、確かに筋は通っておる』
「お前はどっちの味方なんだよ」
「変なの。一人で喋ってる?」
「すまん。気にしないでくれ」
結人がもう一歩近づく。
リンの尾が膨らんだ。
「来ないで!」
「あー……」
そこでようやく、結人は少女をよく見た。
細い。
服も傷んでいる。
肉を食べる速度が、妙に速い。
「……腹減ってる?」
「関係ないの」
「その肉ならもう――」
「リンのなの!」
「まだ何も言ってないけど」
「返さないの!」
そう言った直後、リンが地面を蹴った。
「あ、待て!」
木の幹へ、そこから枝へと、一息に跳び上がる。
「速っ!」
『速いのう』
「リン!」
結人が呼んでも止まらず、紅い尾が枝の向こうへ消える。
「ご主人様」
「うん」
「追われるのですか?」
「ちょっとだけ。ただ、街道から離れすぎるなら戻る」
「わたくしも参ります」
「うん。離れないで」
結人は鞄を背負い直した。アイリスも自分の荷物を拾い上げる。
彼女がついてくるのを確かめ、結人は街道脇へ駆け出した。
◇
「待てって!」
「来るななの!」
「肉はもういいから!」
「嘘なの!」
「本当だって!」
リンは完全には姿を消さず、木から木へと結人の少し先を走っている。
速い。けれど、おかしい。
「……逃げ切れるよな?」
『その気なら、とっくに見えなくなっておるじゃろうな』
「だよな」
リンは時折、こちらを振り返っている。
「追ってくるな!」
「だから話したいだけ!」
「肉を取る気なの!」
「もういいって言ってるだろ!」
「嘘つき!」
「信用ゼロだな!」
その時、リンが枝から地面へ降りた。
結人も足を止める。二人の距離は十歩ほど。
「もう来ないで」
さっきまでとは違う、低い声だった。
結人は両手を少し上げる。
「分かった。止まる」
「……」
「肉も取らない」
「……」
「ただ」
息を整える。
「一人で大丈夫なのか聞きたかっただけ」
「大丈夫なの」
「この森で?」
リンの耳が立った。
「森はリンの一部なの!」
「……野生児か!?」
言い切る顔には、迷いがなかった。
「まぁ今日森に入ったばかりの俺たちよりマシか」
「?」
「こっちの話」
リンはじっと結人を見る。
「帰って」
「分かったよ」
結人が一歩、後ろへ下がる。
「ご主人様!」
少し離れたところから、アイリスが追いついてきた。
「大丈夫ですか?」
リンの耳がそちらへ向く。
目の前の結人と、近づいてくるアイリス。灰色の目が、二人の間を行き来した。
「……二人で取る気なの」
リンの尾が、さらに大きく膨らむ。
「違うって。アイリス、そこで待って」
結人はアイリスへ顔を向ける。
『結人!』
慌てて前へ向き直る。
リンがいない。
「どこ――」
「横です!」
アイリスの声に振り向いたときには、もう遅かった。
紅い少女が、目の前にいた。
「っ!?」
結人は反射的に剣を抜いた。鉄の刃が森の光を反射する。
リンの灰色の瞳が、その剣を捉えた。
「やっぱり!」
「違う、これは――」
「リンの肉、取り返す気だったの!」
「だから違うって!」
リンが低く身体を沈める。結人も咄嗟に剣を構えた。
『結人。気を抜くでない』
「分かってる」
アイリスも少し離れた場所で足を止める。
「ご主人様、お気をつけください」
「うん」
肉を盗んだ少女と、少し話をしたかっただけだったのに。
どうしてこうなった!?
そして、その一瞬の隙をリンは見逃さない。
リンは渾身の力で土を蹴り、結人の視界から消えてしまった。




