プロローグ ~群れは白銀に散らされた~
結人たちがこの森を訪れる前のことだった。
獲物の耳が動いた。
リンは息を止める。草の向こうに、灰色の小さな兎がいる。
風は兎の方から吹いている。こちらの匂いは、向こうへ流れていかない。
まだ気づかれていない。
「……今なの」
地面を蹴る。
兎が顔を上げた。
遅い。
リンの手が――
空を掴んだ。
「わっ!?」
兎は横へ跳ね、そのまま草むらへ消えた。
勢い余ったリンだけが地面を転がる。
「いたた……」
紅い耳を揺らしながら起き上がると、後ろから笑い声が聞こえた。
「惜しかったな」
「笑うななの!」
「笑ってないさ」
「笑ってるの!」
群れの大人が、肩を揺らしている。
リンは頬を膨らませた。
「次は取るの」
「ああ。そのうち、お前が群れの一番槍になるかもな」
「一番槍?」
「一番に飛び出して、一番に道を開くやつだ」
リンの耳がぴんと立つ。
「リン、それになるの!」
「気が早いなあ」
「なるの!」
今度は。
笑われても気にしなかった。
◇
その夜。
リンの前にも肉が置かれた。
「でもリン、今日何も取ってないの」
「知ってる」
お父さんが答える。
「じゃあ、これ誰の?」
「リンのだ」
「なんで?」
「群れで取ったからだ」
リンは肉を見る。
今日の獲物を仕留めたのは別の大人だった。
リンは兎に逃げられた。
「リン、取ってないの」
「明日はリンが取るかもしれないだろ」
お母さんが笑う。
「怪我をしたら、誰かに取ってもらう日もある。小さい子は最初から取れない」
「でも食べるの?」
「食べるよ」
「群れだから?」
「そう」
リンは少し考えた。
それから。
肉へ噛みつく。
「おいしいの!」
「ゆっくり食べなさい」
「明日はリンが取るの!」
「飲み込んでから話しなさい」
焚き火の周りに笑い声が広がった。
誰かが獲物を取れない日があっても。
怪我をして動けない者がいても。
子供が何も持って帰れなくても。
火の周りには同じように場所があった。
リンにとって。
ここに自分の居場所があることだけは、疑いようがなかった。
◇
夜中。
リンは寒さで目を覚ました。
「……さむいの」
毛布を引き寄せる。
おかしい。季節は、ここまで冷える頃ではない。
耳を立てると、誰かの低い声が聞こえた。
いつもの夜とは違う。
「お父さん?」
返事の代わりに、遠くで何かが吠えた。
――オォォォォォォン。
森が震えた。
「っ……」
リンが外へ出る。
白い。
草の先や木の根、地面にまで、薄い霜が広がっていた。
「リン!」
お母さんの声。
「こっちへ!」
リンが走り出したとき、木々の奥で大きなものが動いた。
白銀の狼だった。
けれど、リンの知っている狼より、ずっと大きい。木々の間に立つだけで、森の景色が変わって見えた。
「……なに、あれ」
青白い光。冷たい風が吹き、水が浮かぶ。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
氷が飛び、木が折れ、土が抉れる。
悲鳴。
「お母さん!」
お母さんが手を伸ばす。
リンは、その手へ向かって走った。
だが、二人の間へ氷が突き刺さる。
跳ね上がった土に、リンは顔をかばった。
「走って!」
声は聞こえる。
顔を上げたときには、お母さんの姿が見えなかった。
リンは走った。
近くに見えた誰かの背中を、必死に追った。
けれど、白い風が森を切り分ける。
「っ!」
右へ、左へ。みんなが別々の方向へ散る。
「待ってなの!」
声が遠ざかる。
リンは鼻を動かす。
お父さん。
お母さん。
群れのみんな。
匂いは分かる。
なのに、全部、違う方向へ続いている。
「どっち……」
一つを追えば、別の匂いから離れる。
「待って……」
選べない。
「リンもいるの!」
返事はない。
白い冷気だけが、木々の間を通り抜けていく。
◇
朝の森は静かだった。
リンは一人で歩き、声を探し、匂いを追った。
かすかな匂いが途切れるたびに、来た道を戻る。別の仲間の匂いを見つけては、また追いかけた。
何度も、何度も。
けれど、誰にも会えなかった。
誰が生きているのか。
誰がどこへ行ったのか。
何も分からない。
日が沈む頃。
リンは木の根元へ座った。
火はない。
隣に誰もいない。
食べ物もない。
「……」
膝を抱える。
暗い森の中。
自分の腹が鳴る音だけが聞こえた。
「リンは」
声にする。
「一番槍なの!」
誰も答えない。
「強いの!」
紅い耳が伏せる。
「だから」
少しだけ。
声が震えた。
「大丈夫なの……」
その夜から、リンは一人で食べ物を探すようになった。
新章スタート!
新たな幕開けをどうかお楽しみください。




