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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第二章 狼少女は帰る場所を探す

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プロローグ ~群れは白銀に散らされた~

 結人たちがこの森を訪れる前のことだった。

 獲物の耳が動いた。

 リンは息を止める。草の向こうに、灰色の小さな兎がいる。

 風は兎の方から吹いている。こちらの匂いは、向こうへ流れていかない。

 まだ気づかれていない。

「……今なの」

 地面を蹴る。

 兎が顔を上げた。

 遅い。

 リンの手が――

 空を掴んだ。

「わっ!?」

 兎は横へ跳ね、そのまま草むらへ消えた。

 勢い余ったリンだけが地面を転がる。

「いたた……」

 紅い耳を揺らしながら起き上がると、後ろから笑い声が聞こえた。

「惜しかったな」

「笑うななの!」

「笑ってないさ」

「笑ってるの!」

 群れの大人が、肩を揺らしている。

 リンは頬を膨らませた。

「次は取るの」

「ああ。そのうち、お前が群れの一番槍になるかもな」

「一番槍?」

「一番に飛び出して、一番に道を開くやつだ」

 リンの耳がぴんと立つ。

「リン、それになるの!」

「気が早いなあ」

「なるの!」

 今度は。

 笑われても気にしなかった。


◇


 その夜。

 リンの前にも肉が置かれた。

「でもリン、今日何も取ってないの」

「知ってる」

 お父さんが答える。

「じゃあ、これ誰の?」

「リンのだ」

「なんで?」

「群れで取ったからだ」

 リンは肉を見る。

 今日の獲物を仕留めたのは別の大人だった。

 リンは兎に逃げられた。

「リン、取ってないの」

「明日はリンが取るかもしれないだろ」

 お母さんが笑う。

「怪我をしたら、誰かに取ってもらう日もある。小さい子は最初から取れない」

「でも食べるの?」

「食べるよ」

「群れだから?」

「そう」

 リンは少し考えた。

 それから。

 肉へ噛みつく。

「おいしいの!」

「ゆっくり食べなさい」

「明日はリンが取るの!」

「飲み込んでから話しなさい」

 焚き火の周りに笑い声が広がった。

 誰かが獲物を取れない日があっても。

 怪我をして動けない者がいても。

 子供が何も持って帰れなくても。

 火の周りには同じように場所があった。

 リンにとって。

 ここに自分の居場所があることだけは、疑いようがなかった。


◇


 夜中。

 リンは寒さで目を覚ました。

「……さむいの」

 毛布を引き寄せる。

 おかしい。季節は、ここまで冷える頃ではない。

 耳を立てると、誰かの低い声が聞こえた。

 いつもの夜とは違う。

「お父さん?」

 返事の代わりに、遠くで何かが吠えた。

 ――オォォォォォォン。

 森が震えた。

「っ……」

 リンが外へ出る。

 白い。

 草の先や木の根、地面にまで、薄い霜が広がっていた。

「リン!」

 お母さんの声。

「こっちへ!」

 リンが走り出したとき、木々の奥で大きなものが動いた。

 白銀の狼だった。

 けれど、リンの知っている狼より、ずっと大きい。木々の間に立つだけで、森の景色が変わって見えた。

「……なに、あれ」

 青白い光。冷たい風が吹き、水が浮かぶ。

「逃げろ!」

 誰かが叫んだ。

 氷が飛び、木が折れ、土が抉れる。

 悲鳴。

「お母さん!」

 お母さんが手を伸ばす。

 リンは、その手へ向かって走った。

 だが、二人の間へ氷が突き刺さる。

 跳ね上がった土に、リンは顔をかばった。

「走って!」

 声は聞こえる。

 顔を上げたときには、お母さんの姿が見えなかった。

 リンは走った。

 近くに見えた誰かの背中を、必死に追った。

 けれど、白い風が森を切り分ける。

「っ!」

 右へ、左へ。みんなが別々の方向へ散る。

「待ってなの!」

 声が遠ざかる。

 リンは鼻を動かす。

 お父さん。

 お母さん。

 群れのみんな。

 匂いは分かる。

 なのに、全部、違う方向へ続いている。

「どっち……」

 一つを追えば、別の匂いから離れる。

「待って……」

 選べない。

「リンもいるの!」

 返事はない。

 白い冷気だけが、木々の間を通り抜けていく。


◇


 朝の森は静かだった。

 リンは一人で歩き、声を探し、匂いを追った。

 かすかな匂いが途切れるたびに、来た道を戻る。別の仲間の匂いを見つけては、また追いかけた。

 何度も、何度も。

 けれど、誰にも会えなかった。

 誰が生きているのか。

 誰がどこへ行ったのか。

 何も分からない。

 日が沈む頃。

 リンは木の根元へ座った。

 火はない。

 隣に誰もいない。

 食べ物もない。

「……」

 膝を抱える。

 暗い森の中。

 自分の腹が鳴る音だけが聞こえた。

「リンは」

 声にする。

「一番槍なの!」

 誰も答えない。

「強いの!」

 紅い耳が伏せる。

「だから」

 少しだけ。

 声が震えた。

「大丈夫なの……」

 その夜から、リンは一人で食べ物を探すようになった。


新章スタート!


新たな幕開けをどうかお楽しみください。

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