幕間 第三話 ~旅は荷造りから始まる~
宿へ戻った頃には、空が少しずつ赤くなり始めていた。
結人は部屋へ入るなり、ベッドの端へ腰を下ろした。
「疲れた……」
『たかが鶏三羽で情けないのう』
「剣を持った鶏な」
『鶏は鶏じゃ』
「じゃあ次はお前が戦え」
『神は粗末な雑用などせん』
「焼き菓子四つ食べた神様が何言ってんだ」
『三つじゃ』
「俺の分まで味見しただろ」
『あれは半分しか食べておらぬ』
「数え方が根本的に違いすぎる」
隣の部屋から、くすりと笑う声がした。
扉は開いている。
アイリスはすでに机の上へ荷物を並べ始めていた。
「ご主人様」
「はい」
「休むのは構いませんが、荷物の確認があります」
「明日の朝じゃ駄目?」
「朝に不足へ気づいても遅いです」
「正論だ」
『よいではないか。やれ』
「お前は何もしないのに口だけは元気だな」
結人は諦めて立ち上がった。
◇
床の上に、旅道具を一つずつ並べる。
水袋に、乾燥させた肉や硬いパンなどの保存食。小さな鍋と、火を起こすための道具。
薬、包帯、虫よけ。雨具に簡単な寝具。
予備の靴紐と裁縫道具、地図。そして着替え。
「多くない?」
「必要最低限だと思います」
「これで?」
「はい」
アイリスは真顔だった。
「旅って大変だな」
『今さら気づいたか』
「ゲームだと道具袋に百個くらい入るんだよ」
『何の話じゃ』
「こっちの話」
もっとも。
フィリアから与えられた旅鞄には、見た目よりかなり物が入る。
完全に何でも入るわけではないが、普通の鞄よりは容量が大きい。
それでも重さが消えるわけではない。
何でも詰め込めばいい、とはならなかった。
「重い物はこちらへ」
アイリスが、鞄の背中に当たる側を示す。
「身体に近い、真ん中あたりです」
「下に詰めるんじゃないの?」
「底には寝具を入れます。重い物はその上へ。隙間に着替えを詰めれば、中で動きにくくなります」
「なるほど」
「すぐ使う物は外側です。雨具と薬は取り出しやすい場所へ」
「水は?」
「一本は外へ。予備は中です」
「食料は?」
「一日分は取り出しやすく。それ以外は奥へ」
「先生!」
「はい」
「覚えること多くない?」
「まだ野営の場所を選ぶ話をしていません」
「増えてしまった……」
アイリスが少しだけ笑った。
「川のすぐ近くへ寝床を作ってはいけません」
「水があるのに?」
「雨が降れば増水します」
「なるほど」
「低い場所も避けます。風が強すぎる場所も駄目です。ただし、木の真下なら安全というわけでもありません」
「枝が落ちる?」
「はい」
「火を焚くなら?」
「周囲の枯れ葉をどけます。寝る前には必ず消します」
「野生動物は?」
「食料を寝床のすぐ横へ置かない方がよいです」
結人は一つずつ頭へ入れる。
どれも言われれば分かる。
だが、自分一人なら最初の数日で何かひとつは忘れただろう。
「やっぱりアイリスがいて助かったな」
何気なく言った。
アイリスの手が少し止まる。
「……はい」
「何?」
「いえ」
一度首を横へ振る。
それから。
「わたくしも、役に立てて嬉しいです」
以前なら。
そこで終わっていたかもしれない。
けれどアイリスは、少し考えてから続けた。
「でも」
「うん」
「それだけではありません」
結人が彼女を見る。
「旅をしてみたいです」
静かな声だった。
「この街の外を、自分の足で歩いてみたいです」
「……そっか」
「はい」
役に立てるから。
連れていってもらえるから。
命令されたから。
そうではない。
「じゃあ明日は、ちゃんと自分の足で出発だな」
「はい」
アイリスは笑った。
◇
荷物の確認が終わる頃には、すっかり夜になっていた。
アイリスは自分の旅装を整えている。
深い青を基調にした服。
自分で選んだもの。
上着の内側へ手を入れて、何かを確かめた。
今日の依頼で受け取った銀貨。
八枚のうち、使わずに残した、たった一枚。
財布には入れていない。
他のお金と混ざらないように、内ポケットへしまってある。
アイリスは一度だけ、その上から指で触れた。
「落ちそう?」
結人が聞く。
「いいえ」
「じゃあ何?」
「確認しただけです」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
アイリスも、それ以上は説明しなかった。
◇
夜が深くなる。
やがてアイリスの部屋から物音がしなくなった。
結人もベッドへ横になっている。
「明日は早い」
『分かっておる』
「お前に言ってるんじゃない」
『では誰に言っておる』
「自分に……かな」
『変な奴じゃ』
「悪かったな」
目を閉じる。
昼間に剣を振った腕が、少し重い。
「筋肉痛、明日来るかな」
『若いのであろう? すぐ来るじゃろう』
「嫌な予知だな」
『ほれ、もう寝よ』
「はいはい」
少しして、結人の呼吸が一定になった。
フィリアは文字盤の上へ腰を下ろした。
部屋は静かだった。
かちり。
かちり。
秒を刻む音を、フィリアはしばらく黙って聞いていた。
地下で結人があの力を使った後も、時計は止まったままだった。
それが今日、再び秒を刻み始めた。
『……』
今日、結人は普通の剣で戦った。
下手だった。危なっかしかった。何度も外した。
それでも。
自分で考え、自分で試し、最後まであの二振りを呼ばなかった。
フィリアは小さく息を吐く。
『それでよい』
誰にも聞かせるつもりのない声。
あの力は強い。
強すぎる。
そして結人という男は、必要だと思ったなら、自分が倒れる程度のことを理由に止まる人間ではない。
『まったく』
困ったように笑う。
『もう少し、自分のことも大事にせんか』
眠る結人は答えない。
フィリアは文字盤の縁へ背を預けた。
『次も、その普通の剣で何とかせい』
しばらくして、小さな女神も目を閉じた。
懐中時計だけが、静かに時間を刻み続けていた。
◇
翌朝。
「痛い」
結人の第一声だった。
『ほれ見たことか』
「腕上がんないんだけど」
「上がっています」
アイリスが冷静に指摘する。
「ただ痛いだけですね」
「もっといたわってくれても……」
「剣を振れますか?」
結人は腰から剣を鞘ごと外し、ゆっくりと振ってみた。
「……あぁ、たぶん」
「では問題ありません」
「厳しくない?」
『旅へ出るのじゃろ』
「二人とも冷たくなったな」
朝食を済ませ、宿の主人へ鍵を返す。忘れ物がないか確認する。
一度。
二度。
アイリスが三度目をやろうとしたので、結人が止めた。
「大丈夫。行こう」
「……はい」
三人は宿を出た。
◇
街の門。
少し前まで、結人はここを通るために、自分が誰なのか説明することすらできなかった。
今は、旅人組合の登録証がある。腰には普通の剣、背には旅鞄。
そして隣には、自分で旅へ行くと決めた少女がいる。
門番へ登録証を見せる。
「北東方面へ?」
「はい」
「しばらく街道を進めば、大きな森がある。夜までに着かないなら、手前の野営地を使うといい」
「ありがとうございます」
門を抜けると、石畳はやがて土の道へ変わっていく。
アイリスが一度だけ振り返った。
街を見る。
「忘れ物?」
「いいえ」
首を横へ振る。
「行きましょう」
「うん」
結人も、前を向いて歩き出した。
◇
その日の夕方。
三人は街道沿いの野営地へ着いた。
旅人が使うことを想定した小さな場所で、簡単な風よけと石で囲まれた焚き火跡が残っている。
「ここなら?」
結人が尋ねる。
アイリスが周囲を見る。
「水場は少し離れています。地面も高いです」
「木の枝」
「問題なさそうです」
「風」
「強くありません」
「じゃあ合格?」
「はい」
結人は少し得意げになった。
『全部アイリスに確認しておったではないか』
「確認も能力のうちだ」
『ものは言いようじゃの』
結人とアイリスが、それぞれの寝具を広げる。
焚き火跡へ小枝を集め、結人が魔法で火をつけようとすると――
「待ってください」
「はい」
「枯れ葉を先にどけます」
「あ」
『昨夜聞いたばかりじゃろう』
「実践と知識は別なんだよ!」
枯れ葉を片づけて小さな火を起こし、鍋へ水を入れる。
夕食は、簡単なスープと保存食。豪華だった昨夜とは正反対だった。
『昨日の方がよかったのう』
「毎日宴やってたら旅にならないから」
『金はあるではないか』
「そういう問題じゃない」
アイリスがパンをちぎる。
「わたくしは、こちらも好きです」
「本当?」
「はい」
少し考える。
「昨日の焼き菓子も好きですが」
「お」
『欲張りになったのう』
アイリスは一瞬驚いて。
それから。
「……はい」
否定しなかった。
結人とフィリアが同時に彼女を見る。
「何でしょうか」
「いや」
『何でもないぞ』
二人とも少し笑った。
焚き火が揺れる。街の明かりは、もう見えない。
街道の向こうには、日が落ちて黒い影になった大きな森が広がっている。
明日は、そこに行く。
結人は腰の剣を見る。
アイリスは自分の荷物を確かめる。
フィリアは懐中時計の中から、二人を眺めている。
三人の旅は、ようやく、本当に始まろうとしていた。
以上で一章は完結となります。
第一章は旧作におけるプロローグから結弦とアリスの出会いの部分を再構築したお話となります。
当時は学生でしたので好きなものを全部突っ込んだお話にしていましたので、結構切り口を変えたつもりです。いかがでしょうか?
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