エピローグ ~そして……止まった時計は動き出す~
地下施設の事件から、三日が過ぎた。
「違います」
「また?」
「はい」
「今度はどこが」
「そこです」
朝食のパンを片手に、アイリスが帳面を指す。
結人は自分の書いた文字を見る。
昨日よりは上手くなった気がする。
少なくとも本人はそう思っている。
「ほぼ同じじゃない?」
「違います」
「厳しいな」
「読めなければ困りますので」
『結人よ』
フィリアが、いかにも深刻そうな声を出した。
「何」
『わらわは思うのじゃ』
「うん」
『文字より先に、その焼いた肉をこちらへ寄せるべきではないかと』
「真面目に聞いた時間返せ」
『朝食は真面目な問題じゃ!』
「さっきパン食べただろ」
『パンと肉は別腹じゃ』
「神様にも別腹あるんだ」
『ある』
「即答かよ」
アイリスが小さく笑う。
三日前まで。
こんな朝を想像していなかった。
結人は書きかけの文字を一度諦め、焼いた肉を少し切る。
懐中時計の青い飾りへ近づけた。
『うむ』
「満足?」
『もう一切れ』
「図々しい」
『使徒とは神へ供物を捧げるものじゃぞ』
「そんな義務、いつ決まったんだよ」
『今決めた』
「だろうな」
テーブルの上には、二人分の朝食と、一つの懐中時計がある。
結人。
アイリス。
そして。
皿は無いが懐中時計に腰を掛ける小さな女神。
この食卓には、確かに三人いた。
◇
「旅の準備は?」
食後。
結人が尋ねる。
アイリスは待っていましたと言わんばかりに帳面を開いた。
「ほとんど終わっています」
「流石だ」
「衣服。雨具。水袋。薬。保存食。予備の靴紐。地図。簡単な裁縫道具」
「すまない。俺、全然手伝っていないな」
「いえ、ご主人様は昨日文字の練習をなさいました」
「旅の準備の話だけど」
「それも大切な準備です」
『完全に手綱を握られておるのう』
「お前のせいでもあるからな」
『なぜじゃ』
「文字を読めるようにしてくれなかったから」
『自分で学ぶ楽しみを残してやったのじゃ』
「ものは言いようだな」
アイリスは次のページをめくる。
「解放申請については、こちらを出た後も旅人組合を通じて連絡を受けられます」
「昨日聞いたやつか」
「はい。次の街で組合へ登録証を提示すれば、照会できます」
「じゃあ、手続きのためにここへずっと残る必要はないと」
「はい」
首元の契約印は残っている。
所有者記録も、今は結人の名だ。
「行き先は?」
結人が地図を見る。
当然、文字は読めない。
「北東へ進む街道があります」
アイリスが指で道をなぞる。
「この街道の先に、大きな森があります。森を抜けた先に宿場町があります」
「森」
『旅らしくなってきたのう』
「魔物とかいる?」
『おるじゃろうな』
「軽い」
「街道沿いであれば、比較的安全です」
アイリスが補足する。
「比較的」
「絶対に安全な道はありません」
「だよね」
結人は腰の短剣を見る。
転生したときに渡された護身用。
まだ一度も実戦で使っていない。
「その辺も、組合で聞いておいた方がいいか」
「そうですね」
アイリスがうなずく。
「出発前に、最後に確認しておきたいことがあります」
「まだなにかあるの?」
「えぇ。非常に重要です」
「なんでしょう、先生」
「先生ではありません」
「もう先生みたいなものだよ」
アイリスは困った顔をしたが、それ以上は否定しなかった。
「文字は、もう少し真面目に練習してください」
「おっと、そこに戻るのか……」
結人は笑った。
◇
朝食の片付けが終わる。
出発は、明日か。
遅くても明後日。
大きな荷物はほとんどまとまっている。
今日は組合へ行き、最後の確認をするだけだ。
「じゃあ行こうか」
「はい」
『わらわは少し休むぞ』
「食べただけだろ」
『神にも休息は必要じゃ』
「便利だな、神様」
『ではの』
フィリアの姿が、文字盤の上から淡く消える。
結人は懐中時計を持ち上げ、開いたままの文字盤へ目を落とした。
白い盤面に銀色の針。細い秒針は、十二の少し手前で止まっている。
この世界へ来てから、何度確かめても変わらなかった。
蓋を閉じ、服の内側へしまおうとする。
そのとき。
かちり。
小さな音がした。
「え?」
手が止まる。
今の音は。
結人は、もう一度蓋を開いた。
秒針を見る。
かち。
一目盛り。
かち。
もう一目盛り。
「……動いてる」
アイリスが隣からのぞき込む。
「時計が、ですか?」
「うん」
買った直後に止まった時計。
事故の瞬間に一目盛りだけ進んだ光景は、今も覚えている。
けれど今は、その次の一秒も、さらに次の一秒も刻んでいる。
結人が見つめていても、秒針は止まらなかった。
「フィリア!」
呼ぶ。
返事はない。
本当に休んでいるらしい。
「……こういう時に普通寝るか?」
もちろん答えはない。
結人はしばらく、動く秒針を見つめた。
理由は分からない。
クロノワールドを使ったからなのか。
アイリスを助けたことと関係があるのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
分からない。
ただ一つ確かなことがある。
小さな神様を隠したその時計は。
今度こそ、自分の時間を刻み始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二章の本編は、これで完結です。
このあとは、仲間たちの旅の日常を描く幕間へ続きます。
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今後ともよろしくお願いいたします。




