五 有名な方
力が抜けてしまったのだ。驚きすぎたせいでもあるが、特に害のあるものではないと咄嗟に判断したからでもある。突然のことに仰天しても、即時に臨戦態勢をとらねばならないこともあるのだ。今回はそうではなかった。ただし好ましい状態ではない。
つるつるした板張りの床に尻餅をついた広介は、情けない気分で見あげていた。目の前にだれか立っているのだ。崩れ落ちた広介を、黙ってじっと見おろしている。小柄でほっそりしているが、どこか重たい圧のある影。
顔ははっきり見えないものの、髪をきつめに纏めてあるようで頭が随分小さく見える。薄闇にとける詰襟は、修祓庁の制服らしい。そして四角い旅行鞄をひとつ両手にさげている。それに気づいて、ぴんときた。そのとき上から声が降る。
「驚かせてしまったようです。誠に申し訳ございません」
どこか硬くて、ひやりとしていた。寒空の下で縮む金物。広介は首を横に振った。
「いえ、こちらこそ、失礼しました」
大声を出したつもりはないのに、やけに響いてしまって弱った。軽く首をすくめながら立ち、電灯のつまみをひねる。二三度、目をしばたいてから、ちらりと振り返ってみる。
しらじらとした明かりのもとに、やはり修祓師の格好をした小柄な女性が立っている。広い額を出しており、眉と目もとはきりりとしていて、口も引き結んであった。そのせいなのか、それでも、なのか、どこか幼げにも見える。
たぶん俺より年下だ、春築さんと同じくらいかな。ぼんやりとそう思ったのだが、見慣れた紫紺を背にして輝く金の釦が大変眩しい。金釦をつけているのは、皇族の護衛部隊だけ。だから、やはり間違いない。こんなふうに出くわすなんてと先が思いやられるものの、それを見せては負けという気がする。広介は、その人に身体を向けると、にこりと小さく笑いかけた。
「ちょっと、びっくりしすぎてしまって。暗かったもので、すみません……」
いえ、とその人は否定した。声も表情も緩まなかった。広介がつい口をつぐむと、一歩、距離を詰めてくる。広介は後退りかけて、どうにかその場に踏みとどまった。
「ひとつ、お伺いしたいのですが。こちらは修祓庁官舎ということで間違いございませんでしょうか」
紙を読みあげるような問いに、広介は一瞬気おくれしかける。
「ええ、間違いありませんよ」
なんとか返すと、目の前の人は、了解しましたと宣った。旅行鞄を床に置き、端正な所作で頭をさげる。
「本日より、こちらを居所とさせていただきます。銅室冴白と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
やっぱり、と思わずため息が出る。やはり銅室冴白だった。いま越して来たばかりなのだ。今までは皇女を守っていたので、御所近くに住んでいたのだろう。
銅室冴白は、直ぐの視線を広介のほうへ向けてくる。その目は黒いタイル張りみたいで、感情が浮かびあがってこない。綺麗なお辞儀をきめてくるのでお高くとまってはいないようだが、意思疎通に難があるのでは。そして「毀」を使いかけた人物────
いろいろ不安がよぎるけれども、笑みを絶やさないことにした。
「こちらこそ、よろしくお願いします。銅室さん」
やや乱れていた衿を正した。暗いうちにやっておけばよかったが。
「私もここに住んでいるんです。今はこういう格好ですが────」
「倉代広介一級修祓師」
へ、と妙な声が出た。
名乗ろうとして先回りされた。
「倉代一級修祓師ですね」
広介はつい目を丸め、幼子みたくうなずいてしまった。どうしてわかったのだろうか。同僚になる者なので、名前くらい知っていたっておかしなことはないかもしれない。だが面識はないはずだ。ここにはほぼ修祓師しかいないが、倉代だとすぐ特定された。
広介は少し混乱したが、銅室冴白は冷然として静かにそこに佇んでいる。なにやら、ぴりっと悔しくなって、広介は笑みをつくり直した。
「そうです……、倉代広介です。でも、どうしてご存じで?」
「有名な方でいらっしゃいますので」
「────え?」
「有名な方でいらっしゃいますので」
まったく同じことを繰り返され、膝から崩れそうになる。確かに正直、無名ではないが。
「いえあの、特にそんなことは……」
「有名な方でいらっしゃいますので」
銅室冴白は三度目を言った。返事を待たずに言葉を継いだ。
「倉代一級修祓師といえば、修祓庁長官直属の、第一特務隊にいらした方です。しかし基本の『祓』を使わず、『迎』ばかりをお使いになる。規則改正により「迎」の術が原則禁じられてなお、そのような修祓方法は変わらず、よって倉代一級修祓師は特務隊を去ることになられたとか。そして当該修祓方法は、今日にいたるまで改められず」
銅室冴白はさらさらと、流れるような喋り方をする。
「修祓庁長官殿は、お困りでいらっしゃるようですね。ただし、「迎」は周囲に対し害を及ぼすわけではない。さらに倉代一級修祓師は、実力の確かな方であられる。そのため、これ以上咎めるべきこともなく現状が維持されている」
駄目だと、広介はこぶしを握った。唇の端に力を込めた。ここで笑顔を崩してはならない。銅室冴白は、なおも続ける。
「上層部はやや歪ではありつつ、倉代一級修祓師に対し信頼を置いているようです。そのような方であられますので、有名と形容いたしますのが相当であると思料します」
「あ、えっと、そうなんでしょうか……?」
広介は頭に手をやった。軽くうつむいて笑ってみせる。
「でも臣民相談室にいる修祓師って、少なからずみんな『有名』ですし」
「倉代一級修祓師は、特に実力のある修祓師です」
「銅室さんは傑級でしょう。等級、剥奪されていませんね。お互い」
電灯の微かな瞬きの下、銅室冴白の眉が動いた。そちらも不祥事を起こしただろうと、暗に言ったのが通じたらしい。感じわるかったと思いながらも、素知らぬ顔で話を戻す。
「改めて、臣民相談室の倉代広介と申します。明日ご挨拶するつもりでしたが、いろいろ話が早いですね、これからよろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
銅室冴白は頭をさげる。広介もぺこりとお辞儀した。顔をあげたのは同時だった。目が合い、広介は笑って言った。
「今日お会いできてよかったです」
「私もそのように思っております」
「少しでも気になることがあれば、気軽に聞いてくださいね」
「心強いお言葉を頂戴し、誠にありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」
やはり冷えきった金属に似ている。どこまでも平ら。ひどくなめらか。そんな銅室冴白に対し、広介は微笑んだ。ふわりと笑んで、うなずいた。調理台に置いてある、やかんのほうを振り返る。
「──そういえば喉、乾いてませんか? 先にお荷物置いてこられますか?」
「結構です」
銅室冴白は断じた。なにが結構か知れなかったが、すぐに階段をあがっていった。広介はただ見送った。ぴちゃんと、雫が流しに落ちた。




