三 もしくは掃溜
「倉代。どうした」
「だいじょうぶですか? ごめんなさい、火傷とかされとりませんか?」
「されとりません、ごめんありがと……」
「ほんまに? ちょっとお水持ってきますね!」
春築が身軽に立ちあがり、扉のほうへ駆け寄っていく。広介は慌てて引きとめた。
「待って、もう、もうだいじょうぶなんで、だいじょうぶなんでいいですから」
「えっ……、そうなん? ええんです?」
春築がくるんと振り向いたとき、急に背後の扉がひらいた。悲鳴をあげて飛び退いた直後、春築はばっと腰を折る。
「室長さん! おつかれさまですっ」
「やあ春築君。おどかしたかな」
「いいえ! なんちゃ、平気です!」
「そうか、どうもごくろうさま」
颯爽と入ってきたのは、中背ながら均整のとれた体躯の、三十代ほどの男性だった。地﨑隆文、室長である。紫紺の上衣を肩に引っかけ、張りのあるシャツの両袖を肘までまくりあげている。まっさらな色が薄闇に映え、部屋が明るくなるようだ。
その姿をみとめてすぐ、広介はその場に立ちあがった。喜多も同時に起立した。すぐにそれに気づいた地﨑は、ははっとかろやかに笑った。
「相変わらずだなきみたちは。そうだ喜多君、トランプの件はどうなった?」
「はい、修祓完了しております。修祓録を提出いたします」
喜多がくっきりとこたえると、地﨑は労わるようにうなずく。
「うん、頼むね、それから……。春築君も今朝、ご婦人から相談を一件受けていたよね」
「はいっ、修祓完了しております。修祓録を提出いたします?」
春築は喜多にならったが、若干上がり調子になった。うんよろしく、と笑った地﨑は、最後に広介のほうを向いた。
「倉代君は? 壺の相談があったよね、人が近づくと震えるっていうやつ……、修祓は完了してたかな」
曇りのない目と目が合うと、自然と背筋が伸びるのだった。けれども、余計な力は抜ける。
「はい、修祓完了しております。今日は修祓後の経過観察でした。記録はまだ書けていないのですが。あとは、庁舎に戻ったときに門の前で修祓一件です。憑かれた子犬がうしろにいたので」
「そうか。賢い子なのかもね。助けを求めに来たのかな」
地﨑はのどやかな調子で言った。机の島を通り過ぎ、窓の下にある室長席に上衣と帽子を軽くほうった。つややかに光る机の上に、ぱさりと紫紺のウールが広がる。隅のほうに裏返してある素朴な茶碗を手に取ったので、広介は魔法瓶を手に駆け寄り、椀にたっぷり煎茶を注いだ。お気をつけて熱いですと言うと、地﨑はありがとうと片目を瞑る。嫌味もなくてよく似合う。見ると笑顔になれてしまう。
「室長は、いかがでしたか。例の件」
喜多が生真面目な様子で訊ねた。地﨑は笑って首を振った。
「あれね。あれは離魂じゃなかった」
「えっなに、そうなんですか」
扉のそばの春築が、どこか間の抜けた声をあげる。
「けど例の件ってなんですか?」
「某辻本男爵家の衿子嬢のご相談だ」
「例の件」とぼかしていたのに喜多ははっきりと口にする。「某」も意味をなしていないので、広介はつい笑ってしまった。衿子嬢はよく相談に来る。
「今回お見えになったときには、春築は確か外へ出ていた」
「ああ、そうやと思います、衿子さんお見えやったんですね!」
春築は納得した様子だ。くすりと肩をすぼめた地﨑が、片手で包み込んだ茶碗をグラスみたく揺らしながら言った。
「そう、衿子嬢いらしたよ。今月三回目の相談だったけど、離魂の仕業ではなかったんだ」
「ご友人のお話でしたっけ」
広介は衿子嬢の、巻いたり編んだりした下げ髪や、大きな飾紐を思い出していた。
「うん、ご学友の態度が近頃、少し冷たく思われるので、憑かれているのかもしれないと」
「おともだち、憑かれとらんかったんです?」
「そうだね、お会いしてみたんだけど、離魂が憑いているのではなかった。ただ、互いに勘違いがあったようだから、仲直りの手助けをしたんだ。本当に少しばかりだけどね」
「それ室長さんのお仕事なんです?」
「春築君は鋭いな」
地﨑は愉快そうに肩を揺らした。
「でも、勘違いやすれ違いがきっかけで、離魂が出ることもあるからね。予防策は『結』ばかりではないよ」
「ああ……、ほんまや、ほんまですねぇ……」
春築は素直に感動するが、喜多は秀眉を顰めている。
「辻本嬢のおっしゃることは、取るに足らない小事ばかりです。相談されても困りますから今度見えたら私が言います」
「そんなこと言って喜多君は、だれの話も真摯に聞くよね」
「しん────いえ、私はとにかく修祓師を馬鹿にされている気分なのです」
「馬鹿にはしてらっしゃらないと思うんだけどね。そう感じるのも無理ないかもね」
地﨑は静かに煎茶を啜る。
「でも、私たちにしかできないことだよ」
穏やかな言葉を受けて、喜多は口もとを引き締めている。
「だれかにとっては小事でも、だれかにとっては一大事だ。離魂絡みの相談なんて、特にそういうものだろう。大小なんかは決められない。まあ決めざるを得ないんだけど、急に逆転することもある。離魂のせいかそうじゃないかも、なかなかわかりにくいものだ。そこで私たちの出番だよ。……そういうことで春築君、看板を取ってくれるかい」
「はいっ」
そういえば、扉にかかっている黒板の文字が消えかけていた。書き直そうとして忘れていた。
「だれでも気軽に相談できるし相談があれば必ず動く。そういう存在は必要だ。衿子嬢のご相談も小さなこととは言いきれないし、いつかなにかに繋がるかもしれない。私はそういうふうに思う。倉代君、いつもの頼むね」
どこか楽しげに目くばせをされ、広介はうなずいた。春築から黒板を受けとって机の抽斗をそっと開けると、白墨と黒板消しを取りだす。薄れた文字を消してしまって、小指の先ほどの白色でゆっくり丁寧に書き直した。それほど上手いものではないが、この中では一番で通っている。よって黒板の書き直しは、前から広介に任されていた。
これは、この部屋の看板である。記した文字は「臣民相談室」。ここは臣民相談室だ。離魂に係る臣民の相談をなんでも受けて即対応する。修祓庁修祓局庶務課の内部組織という位置づけであり、ほかが相手にしなかったり、相手にできなかったりした案件を諸々拾って解決している。修祓庁内での裏の通称は、駆込寺。または烏もしくは掃溜。駆込寺と烏はともかく掃溜はただの悪口である。成員の事情のためらしい。烏も大概悪口である。屑を掃除するという意味らしいので。
「倉代さんはほんまに達筆、お習字の先生みたいやなぁ」
「春築さんはほんまに褒め上手」
「えぇ? お世辞とちゃうのにから!」
「倉代君、ありがとうね」
「いえ」
「さて、看板の字も新しくなったことだし」
地﨑はことりと茶碗を置いた。なかなか重要なお知らせがある、と軽い調子で言うその背後で、差し込む夕日に塵が光った。
「なんでしょうか」
喜多が訊ね、春築が首を傾ける。広介は右手の指先を無意識にこすり合わせていた。白墨の粉をすり込んでいた。地﨑は、あっさり発表した。
「今度、この臣民相談室に新しい成員が加わることになった。修祓庁御舎局の、椿裏狼から緊急の異動だ」
「ええっ」
春築が軽く飛びあがる。
「がいに優秀なひとやんか!」
目をみひらいてこちらを見るので、広介はひとつうなずいてみせた。
椿裏狼といえば、皇女を離魂の害から守る護衛部隊のことである。特に優秀な修祓師のみが引き抜かれて入るところだ。そんな精鋭部隊から、この片隅かつ半地下の部屋に突然異動ということである。おそらく、なにかやらかしての左遷だ。そこの臣民相談室にでも、入れておけということらしい。
臣民相談室の成員は、だいたい外れ者である。外れ者ではあるものの、周囲には害を及ぼさないし中々使えると判断され、手放すのも惜しいということで、一箇所に集められている。寄せ集め、吹き溜まりの「掃溜」だ。だがそんなことは関係ない。成員はそれぞれ少しずつ異なる、誇りと信念を持っている。
「椿裏狼なんやったら、そのひと女のひとですか?」
「そうだね、女性だ」
「おわぁ、やった!」
「明日から来るよ」
「あぇっほんまに?」
「ほんまだよ」
「えっ、えぁあどうしょう? なあ、なあ喜多さんどうしょうか?」
「知らん」
「そういうことで、急だけど。決定事項だからよろしくね。ついては、ひとつ頼みがあるんだ」
倉代君、と地﨑に呼ばれ、広介ははっと姿勢を正した。真っ直ぐに目をとらえられ、おぼえず両手を握り込む。




