二 または鳥
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腹が減ったので芋が食いたい。
修祓庁庁舎の入口である回転扉にさしかかる。鈍重な扉をずずずと押しつつ、広介は焼き芋がよいと思った。肌寒くなると恋しくなるのだ。芋。熱くて、甘くて優秀。米が高くなったとしても値段があまり変わらず安い。芋。本当にできるやつである。勤務中なので控えてみたが買って戻ってくればよかった。芋。
芋で頭を満たしていると回転扉を抜けていた。制帽を取り、タイル張りの床を靴音高らかに進んでいく。すれ違う同僚や上官に、いちいち止まって会釈をしつつ、鬱陶しいかとも思いつつ、奥へ奥へと進んでいく。芋。
人の通りもなくなった突き当たりを左に曲がれば、ひっそりと暗い階段がある。初めて見たならまず近寄らない、湿っぽい闇の中に向かって、広介は迷うことなくくだる。
十段くだれば目の前に、木製の扉が現れる。焦げた茶色で窓がついており、しかし濁った磨硝子なので中の様子は窺えない。窓の上には杭が打たれて、そこから小さな黒板がぷらんと吊りさげられている。記された文字が消えかけていた。すぐ書き直しておかねばならない。広介は芋を思いながら鍍金の剥げた取っ手を握り、なるべくそっと回して開けた。
「倉代ただいま戻りました!」
大きな声で宣言すると、ふたりぶんの聞き慣れた声と煙草のにおいが返事をする。静かに扉を閉めてから、広介は自分の席へ向かった。
半地下の薄暗く狭い部屋だが、大事な執務室である。毎日きちんと掃除をするので、埃や不快な臭いはない。鉄格子の嵌まった高い窓からぼやけた光が差し込んでおり、ちょうど部屋の中央にある机の島が照らされている。種類がばらばらの机と椅子を六つずつ寄せ集めてある島だ。ひとりにつき、ひとつ半ほど手前勝手に占領している。短い鉛筆が転がっていたりなにひとつ物がなかったり、紙がうず高く積まれていたりと上の様子もいろいろである。
島より奥の窓近くには、桁違いに値の張りそうな重厚な机が陣取っている。その席を使う室長は、今は外に出ているようだ。机の向こう、部屋の隅では、羽を広げた鷲の剥製が鋭く壁を睨めつけている。壁には戸棚が張りついており、わけのわからぬとりどりの本がところ狭しと詰められている。そばに天鵞絨の長椅子がある。
自席の籐椅子を引いたとき、広介は斜向かいから呼ばれた。
「倉代さん。おつかれさまです」
春築ワカ。片づいた丸い机の上に粗紙の袋を広げている。揃いの紫紺の制服に、毛先を巻いた断髪の女性だ。くっきりとした顔だちに鮮やかな色の口紅が似合う。近頃よく流行している、モダンガールという感じであろう。広介より少し年下で、新人の修祓師である。
「おつかれさまです春築さん。ところでなに食ってんですか?」
籐椅子に腰かけながら、広介は気兼ねもなく訊ねた。春築は袋に手を突っ込んで、口をもぐもぐさせているのだ。ほんのりと、甘い匂いもしている。春築はこくんと喉を動かし、のんびりとした調子でこたえた。
「これね、これはお饅頭です。離魂祓いのお礼やって、くれるけん貰うてしもたんです。ありがたいです、内緒ですよ?」
春築は袋をごそごそとやり、黒糖色の丸みを取り出し大きな口でかぶりつく。どこか可憐な豪気さに広介が感心していると、春築は饅頭を飲み込んでからにっこり華やかな笑顔を見せた。広介の机を指差して言う。
「倉代さんも、よかったらどうぞ。そこに取り分けとんですけど、食べてしもたらいかんけん……やけどちょっとこま遅かったら、それも食べてしもうとったわ危ない」
「え、帰ってきてよかったです……!」
低い机を見おろしてみる。意味の不明な落書きだの、疵だのがいっぱいの天板の上に、ちょこんと小さな包みがあった。手に取って広げてみると、ふわっと素朴な香りとともにお饅頭が現れる。広介はつい歓声をあげた。
「すげぇうまそう、嬉しいです! ちょうど腹減ってたんですよ……」
減りますねぇと春築は微笑む。芋が食いたいと思ってはいたが、饅頭もとても素晴らしい。
「あ、でも、春築さんが貰ってきたのに。俺もいただいていいんですか?」
広介が訊ねると、春築は饅頭を咀嚼しながら得意そうにうなずいた。人差し指を立てているので一個恵もうということらしい。広介はぺこりと頭をさげた。すると春築は喉を鳴らしつつ隣の机へ手を伸ばす。なにか取ろうとしているらしい。
「──これか?」
耳に心地よい低音で隣の机の主人が問うた。その手には寸胴で銀色の大きな魔法瓶がある。春築がこくりとうなずくと、重たげな魔法瓶は音もなく広介の机の上に置かれた。
「ありがと、喜多はもう貰った? 饅頭」
訊きながら魔法瓶の蓋を開けると、湯気が立ちのぼり空気が潤む。中身はいつもの通り煎茶だ。渋い香りの向こう側から、弦楽器めいた低音がこたえる。
「いや……今はその気分ではない」
「そっか」
広介は笑いをこらえて返した。春築が大変うまそうに食うので、貰うのはわるいと考えたらしい。気分ではないとはそういうことで、喜多清一郎はそういう男だ。おそらく春築には通じていないが。甘いのおすきとちゃうんかな、とか多分思われているのである。
喜多は、ミシンのないミシンテーブルの踏板に軽く片足を預け、細身の操出鉛筆片手に目を伏せ書類を読んでいた。色白の頬にさらさらとした黒髪の影が揺れており、器用じゃないが男前である。広介は男前ではないので、遠慮なくありがたく饅頭をいただく。机の抽斗を開けて愛用の湯呑を取り出していると、
「倉代。今日はどうだった」
書類に目を落としたままに喜多がさりげなく問うてきた。広介は魔法瓶を傾け、湯呑にとぷとぷと煎茶を注いだ。
「うん、今日は経過観察と修祓一件。修祓は門の前で子犬」
そうかと簡単に応じた喜多は、ふと目をあげて広介を見た。
「等級は」
広介は湯呑を取りあげた。飲もうとしたがまだ熱すぎた。魔法瓶が仕事をしている。
「四級ってとこだったかな、ふたりは?」
「俺は一件相談があった」
「なんだった?」
「トランプだ。戯奴が夜ごと箱を出て毎朝違うところに落ちているから、見てほしいということだった」
「怖いな」
「ああ。その札を見せてもらうと憑いていたのですぐに祓った。あれは四級の離魂だった」
「よかった」
「なぜ」
「手がかからない。経過観察もいらないし」
「そう決めつけるのは危ういことだ」
喜多が静かに注意する横で、春築がぱっと手をあげる。
「うちも、四級のやつでした、かわいげなお婆ちゃんに憑いとったんです。お婆ちゃん、ずっと調子わるかったって。ゆるせんけんすぐ祓いました、口ほどにもなかったんですよほんまに」
「だからといって油断してはいけない」
「はい、お饅頭はそのお礼なんです」
「聞いたぞ」
「はい、言いました。やけどもう一回言うたんです」
端然と悠然の応酬がなんだか可笑しくてにやけていると、また喜多と目が合った。休めよ、となにげなく言われた。
その言葉に軽くうなずき、広介は窓の下を見やった。壁紙は黄ばんで剥がれかけているが、立派な額縁が飾られている。修祓師見習いのための教本をだれかが書き写してあるもので、なぜか知らないが展示してある。萎びた紙に剛力な字で、いくつかの文を記してあった。見慣れているはずのその文言を、広介は時折、我知らず追う。追って、捕まえて噛み砕く。飲み込む。決意を新たにする。
『離魂、魂器ヨリ乖離セシ烈々タル情念ノ変化ヲ謂フ』
情念の勢力は、魂と呼ばれている。人はもちろん、動物や物にもそれぞれに魂がある。身体または物本体──魂器に納まっているのが平常。しかし強まりすぎたときには、外に飛び出し、離魂となる。宙を漂い彷徨し、他の魂器に侵入する。これが、離魂が憑くということだ。
離魂に憑かれると、物であれば依代と呼ばれ、生きものであれば依坐と呼ばれる。依代は急に壊れたり、ひとりでに動きだしたりするし、依坐は虚脱、昏睡するとか、異常な行動を始めるとかする。そしてこの離魂というのは、五官の作用で感知できない。第六感で覚知するには、才能と訓練が必要になる。覚知は修祓の必須条件だ。それができれば修祓師を目指せる。
『修祓トハ、覚知シタル離魂ニ留魄ヲ以テ対処スルノ術ナリ 留魄トハ、魂器ヨリ発セラルル勢力ヲ謂フ』
修祓は、自らの留魄を操作し離魂に対処することである。留魄は魂器──身体または物本体の発する勢力のことをいう。動物も物も出しているのだが、人間はこれを操ろうとする。できる者はひと握り。離魂を覚知することができ、かつ自身の留魄を手懐けた者は、修祓師となることができる。そして、修祓には「祓」を第一とする、五種類の術がある。
『二ニ浄、三ニ結、四ニ毀、五ニ迎』
依代、依坐に憑いた離魂を術者の留魄によって引き出し、力同士を相殺する。これが「祓」、修祓の根本。依代や依坐、場を浄化する「浄」、結界を張り離魂を防ぐ「結」も、基本的かつ重要な術だ。修祓師の務めはほとんど、この三つを行うことに尽きる。四つ目は緊急用である。
『四ニ毀、依代依坐諸共ニ離魂ヲ毀ツ』
「毀」は、依代、依坐もろとも離魂を破壊する術だ。離魂を切り離すことができず依代や依坐が暴れ回り、周囲に危害を加えるなどして手がつけられなくなった場合、やむを得ず行使する。依坐に対して使うのであれば、命を奪うことになる。そして五つ目が、「迎」である。
『五ニ迎、離魂ヲ術者ノ魂器ニ迎入レ和合ス』
「迎」というのは、離魂を、術者の中に取り込む術だ。打ち消し合ってしまうのではなく、留魄で包み込んだうえ、術者の魂の一部とする。
『此術、術者ノ心身ヲ著シク疲弊セシムルガ故不行使ヲ推奨ス可キモノト雖モ────』
心身を著しく疲弊させるだの、不行使推奨だのと、言われているが。
「迎」向きの体質であれば、何度も使って慣れたのならば、 何事もなくやっていける。
「祓」は基本であり鉄則であるが、広介にとっては危うい術だ。場合によっては、依代や依坐に疵や苦痛を与えてしまう。そして祓いきれなければ、「毀」を使うことになる。「毀」などは使いたくない。決して、絶対に使わない。だから「祓」も使わない。いつ何時も、「迎」えるだけだ。「迎」ならば、依代依坐に悪影響は及ばない。「毀」を使うべきこともなく────
「……倉代さん? 零れますよ?」
春築の声で我に返った。広介ははっと手もとを見て、湯呑が傾いていることに気づく。立て直せばよいだけなのに慌てて中身を飲んでしまい、熱い塊が喉を過ぎるまで軽く悶絶することとなった。無言で背中を丸めていると、向かいのふたりが覗き込んでくる。




