一 駆込寺
赤く滲んだ夕焼けの空、烏の乾いた声が響いた。余韻を溶かした風が一筋、涼やかに吹いて過ぎたあと。密やかに甘い香りが残り、秋の寂寞を偲ばせる。
帝都中枢の喧しさから、少し外れた通りである。土を均しただけの道には、落陽の色が深く染み込む。ところどころに雨の名残の小さな窪みができており、まばらに通る自動車なんかは少し横揺れしているらしい。四角い形をしたタクシーが、一度がたんと窪みに嵌まって車塵をふかして走っていった。発動機の音が遠く消えると、夜の気配を感じ取ったか高い街灯が瞬き始める。揺蕩う影が、濃やかになる。影の主は青年である。
地面と同じ、夕焼けの染みた詰襟の服を身につけている。夜空に近い生地の紫紺に銀の釦がきらりと光り、黒いベルトにさげた洋剣が金具と触れ合いちゃらり、と鳴る。制帽を深く被っているためその表情は窺えないが、背筋はすっきり伸ばされており、身ごなしは無駄も削がれて清雅。纏う色彩も相俟って、気高い夜闇を思わせる。
よく磨かれた、光沢のあるくたびれた靴で土を鳴らして、青年はひとり通りを進む。その眼前に現れるのは、二本の四角い石の柱が狛犬のように並ぶ門。向かって右の柱には、威厳ある古い銅の看板。そこへくっきりと彫り出されるのは、「修祓庁」の三文字である。その横を通過する手前、青年はふと立ちどまる。そして、くるりと振り返る。
足もと。青年の影に隠れて、子犬が一匹佇んでいた。なめらかな毛が夕日をはじき、茜の色につやめいている。短い芒のような尻尾は、しょんぼりとして下を向く。いまにも泣きだしそうな様子に、青年はすぐに気がついた。静かにその場へ片膝をつき、子犬の顔を覗き込む。つぶらな瞳としばし見合うと、彼はするりと両手を伸べた。
────おいで。
やわらかな声で呼びかけ、そっと子犬を抱きあげる。その手はふいに、光を発す。彼の全身に広がっていき、子犬もろとも包み込む。赤。夕焼けとは異なっている。異彩の赤を纏った彼は、子犬の身体を抱きしめていた。はくりと、子犬の口がひらいた。なにかを吐きだすときに似ていた。
その後も、光はしばしのあいだ、灯火めいてゆらゆらとした。揺らめきながら、徐々に薄らぎ、いつの間にやら見えなくなった。まるで青年の身体の内へと染み込んでいくようでもあった。雨水を食う涸れ土のごとくすべて迎えてしまうのである。光がすっかり見えなくなると、彼はやさしく労わる手つきで子犬の毛並みを撫でつけた。
すると、子犬の耳が動いた。ぴくりとしてから、ぴんと立ち、目も生き生きときらめきだした。尻尾を輝くばかりに振っては、青年の顔を舐めている。くすぐったそうに目を細めつつ、青年はそこに立ちあがる。元気な子犬を宥めすかして、ものやわらかに言葉をかけた。
「頑張ったな、つらかっただろごめん……だけどほんとに賢い子だな。憑かれたなって思ったから、修祓庁まで来たのか、ん?」
ぴょこりと、子犬が動いた拍子に、青年の被る帽子が落ちた。坊主頭に近い短髪、切れ長の目が現れる。その面立ちは鋭いのだが、その表情は人好きがする。どうやら、犬好きもするらしい。
「わ、かったって、ありがとな。けどまだ迎えただけだから。『浄』もやっとかないといけない」
青年がそう言い聞かせると、子犬はすうと大人しくなる。
「よし、いい子だ、偉い。すごいぞ」
子犬の頭を掻き回しつつ、青年は息を継いで唱えた。
「イタイラハタカナウンモオトタットサヲリンシイタンイラハンタカ……」
珍妙な音の連なりである。子犬は小首を傾げて聞いた。
「あと、『結』もやらせといてくれ、憑かれてすぐは憑かれやすいんだ。あんまり長くは保たないんだけどやらないよりはましだから…………ルイテギスレボヌウンハエマンオイサルウイナハデイヨモンテイナ────」
唱え終わった青年は、子犬に大きくうなずいた。
「ほら、終わった。もういいぞ……、あっ」
子犬が飛び出した。腕の中から飛んで出て、身軽に着地し駆け去った。青年は目をみひらいて、しばらく子犬の行方を見つめ。やがて、小さく息を漏らした。額を押さえてうつむいたのは、ほんの一瞬のことだった。すぐに気丈に顔をあげると、帽子を拾って埃を払い、両手で真っ直ぐ被り直した。それから、くるりと踵を返す。石柱の門を通過する。
警備の詰所へ敬礼すれば、中の仏頂面の守衛が笑顔になって答礼をする。青年はそれに笑みを返すと、赤い煉瓦の庁舎のほうへ、凛然として歩いていった。
彼は、人や物などに憑く離魂を祓う修祓師である。しかし、彼は祓わない。「祓」の術を使わない。一級修祓師倉代広介は、いつ何時も離魂を「迎」える。




