第9話 鬼教官指導
林との話は、ちょうど二時間ほどで一区切りとなった。
「……以上が、降魔戦争から探索者時代までの歴史です。」
林は静かに頭を下げる。
二郎も深く息を吐いた。
「ありがとうございました。知らないことばかりでした。」
その時だった。
コンコン。
襖の向こうから猪俣の声が聞こえる。
「薫子様がお見えになりました。」
「お通ししてください。」
障子が静かに開かれる。
白銀の髪。
澄み切った青い瞳。
豪華な白を基調とした着物を身にまとった八木家当主・薫子が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
部屋を見渡し、ふっと微笑む。
「楽しそうに話していましたね。」
「はい。」
林は姿勢を正した。
薫子は二郎へ視線を向ける。
「顔色も良くなりました。」
「体調も問題なさそうですね。」
「それでは、予定通り訓練を始めます。」
二郎は思わず聞き返す。
「えっ?」
薫子は当然のように頷く。
「鉄は熱いうちに打て、と申します。」
「身体が動くようになった今こそ鍛える時です。」
そして林へ向き直る。
「林。」
「はい。」
「日本刀に使われる鋼のように。」
「八木二郎を鍛え上げなさい。」
「はっ!」
林は背筋を伸ばし、軍人らしい敬礼をする。
「必ずや、ご期待に応えてみせます!」
返事には妙に気合いが入っていた。
その様子を見ていたダニッジが、小さく笑う。
『……これから地獄じゃのう。』
「え?」
『基礎訓練だけと思っておるか?』
「違うの?」
『林は強行偵察隊出身じゃ。』
『国防軍の徽章を持つ者しか入れぬ精鋭部隊じゃぞ。』
『昔で言えばレンジャー部隊と同格じゃな。』
二郎の顔から笑みが消える。
「……。」
『しかも薫子に頼まれて、完全にやる気になっておる。』
林を見る。
本人は真顔で立っている。
だが、どこか鼻息が荒い気がした。
「……できれば今の話は聞きたくなかった。」
林は時計を見る。
「では二郎様。」
「本日は早めにお休みください。」
「明朝六時。」
「屋敷裏の訓練場へ集合です。」
「……はい。」
二郎は力なく返事をした。
ダニッジだけが愉快そうに笑っていた。
『がっはっはっ!』
『楽しみじゃのう。』
「俺は全然楽しくない……。」
◇ ◇ ◇
翌朝――午前六時。
まだ朝靄の残る屋敷裏の訓練場。
ジャージ姿の二郎は、大きな欠伸をしながら眠い目をこすっていた。
「ねむい……。」
朝露に濡れた広い土の広場には、丸太、鉄棒、縄、木製の訓練器具が整然と並んでいる。
その中央で林が腕を組み、待っていた。
「おはようございます。」
「今日から一年間。」
「私が二郎様の教官を務めます。」
二郎は眠そうに頭を下げる。
「よろしくお願いします……。」
林は頷いた。
「まず、一年間の訓練内容を説明します。」
木の棒で地面へ予定を書いていく。
「最初の三か月。」
「国防軍基礎体力訓練。」
「次の三か月。」
「格闘戦闘訓練。」
「徒手格闘、ナイフ、防御、対人戦闘を学びます。」
「その後二か月。」
「投擲訓練、発射武器訓練」
「ナイフ、斧、ダーツ、ボウガン、ライフルなどを習得します。」
「さらに二か月。」
「奥多摩山岳部での実戦野外訓練。」
「最後の二か月。」
「二郎様が伸ばしたい技能を重点的に鍛えます。」
「週二日は休養日。」
二郎がほっとした瞬間。
「ただし休みではありません。」
「その日はダニッジ様による符呪術、魔導工学、魔法理論、読書です。」
『甘かったのう。』
ダニッジが笑う。
「ブラック企業よりひどい……。」
「何か言いましたか?」
「いえ!」
林は満足そうに頷いた。
「では始めます。」
「まず基礎サーキット。」
「腕立て伏せ五十回。」
「懸垂、限界まで。」
「ディップス五十回。」
「バーピー五十回。」
「レッグレイズ五十回。」
「その後、二十キロの背嚢を背負って山道を走ります。」
「最後は障害物走と全力疾走です。」
二郎は固まる。
「……全部?」
「全部です。」
「今日は軽めです。」
「軽め?」
『がっはっはっ!』
『逃げるなら今じゃぞ!』
「逃げたい!」
しかし訓練は容赦なく始まった。
腕立て伏せ三十回。
「はぁ……はぁ……。」
『腕が笑っとるぞ。』
「笑ってない!泣いてる!」
四十回。
五十回。
「うわぁっ!」
そのまま地面へ倒れる。
「終わった……。」
「まだ一種目です。」
「鬼だ……。」
懸垂。
ディップス。
バーピー。
レッグレイズ。
すべて終える頃には汗で全身がびしょ濡れだった。
『立て。』
『降魔戦争では、その程度で寝転んでおったら三秒で殺されるぞ』
「比較対象がおかしい!」
さらに二十キロの背嚢を背負う。
「山を一周。」
「行ってらっしゃい。」
「鬼だぁぁぁ!」
奥多摩の坂道を必死に走る。
転び。
起き上がり。
また走る。
『足を止めるな!』
『呼吸を整えろ!』
『その一歩が命を繋ぐんじゃ!』
ダニッジの声に励まされ、歯を食いしばって走り続けた。
屋敷へ戻った頃には、全身が限界だった。
◇ ◇ ◇
訓練後。
二郎はふらふらと浴場へ向かう。
熱い湯へ身体を沈めた瞬間――
「あぁぁぁぁ……。」
全身に激痛が走る。
「いだだだだっ!」
「イァ! イァ! イァ!」
ダニッジが吹き出した。
『なんじゃ。』
『ハスターでも呼ぶ呪文か?』
「違う!」
「痛いだけだ!」
『がっはっはっ!』
ようやく風呂から上がると、猪俣が待っていた。
「二郎様、お食事の準備ができております。」
「薫子様のご指示で、本日より成長促進のため、生肉料理をご用意しております。」
「……生肉かぁ。」
二郎は肩を落とす。
一方、ダニッジは大喜びだった。
『待っておったぞ!』
食堂へ入ると、大皿いっぱいの料理が並んでいた。
牛肉の握り。
馬肉ユッケ。
鰹のたたき。
新鮮な刺身。
料理長・角田が腕によりをかけた料理である。
『やっぱり肉は生じゃな!』
ダニッジは尻尾の口で器用に肉を頬張る。
「うまい!うまい!」
二郎も恐る恐る牛肉の握りを口へ運ぶ。
「……。」
「えっ?」
「うまっ!」
臭みはなく、とろけるような食感。
「角田さん、すごい……。」
猪俣は微笑んだ。
「料理長も喜びます。」
空腹も手伝い、二郎は夢中で料理を平らげた。
食事を終える頃には、全身の疲労が一気に押し寄せる。
「もう……限界……。」
部屋へ戻ると布団へ倒れ込み、そのまま数秒で眠りに落ちた。
こうして八木二郎の、鬼教官・林による地獄の訓練生活が、本格的に幕を開けた。




