第3話 当主 薫子に会う
「お召し物をご用意しております。それから、お食事の準備も整っております。」
「薫子様も、二郎様がお目覚めになったことを大変お喜びでございます。」
「薫子様って……。」
「八木家の当主でいらっしゃいます。そして、ひかる様のお姉様でもございます。」
二郎は言葉を失った。
母。
当主。
八木家。
知らないはずの言葉なのに、不思議と胸の奥がざわつく。
『薫子は信用してよい。』
ダニッジが静かに言う。
『あの女は、お前のことを知っておる。』
「知ってるって、何を……。」
『お前が、ただの人間ではないということじゃ。』
二郎は息をのんだ。
猪俣はそんな二人のやり取りに気づかぬふりをするように、穏やかな声で続ける。
「薫子様なら、きっと二郎様の疑問にもお答えくださいます。まずはお支度を整えましょう。」
「……はい。」
二郎がうなずくと、猪俣は着物を差し出した。
その瞬間、ダニッジが低く言う。
『それと、ひとつだけ覚えておけ。お前の血筋の先には、ヨグ=ソトースという名がある。』
「ヨグ……ソトース?」
『今は、その名だけでよい。詳しいことは、薫子から聞くがよい。』
猪俣は優しく微笑み、二郎へ手を差し伸べた。
「さあ、二郎様。薫子様がお待ちでございます。」
二郎は小さく頷き、その手を取った。
猪俣に手を引かれながら、二郎は廊下を歩いていた。
廊下は磨き上げられた木でできており、歩くたびに足の裏へ心地よい感触が伝わる。
着替えたばかりの紺色の小さな着物は、思っていたよりも動きやすかった。
「お似合いでございます、二郎様。」
猪俣が優しく微笑む。
「そ、そうですか……。」
まだ袖の長さに慣れず、二郎は何度も裾を気にしてしまう。
屋敷の廊下では、使用人たちが仕事の手を止め、一斉に頭を下げた。
「おはようございます、二郎様。」
「お目覚めになられて何よりでございます。」
「ご回復、お祝い申し上げます。」
二郎は慌てて頭を下げ返す。
「お、おはようございます。」
『緊張せんでもよい。』
ダニッジが笑う。
『皆、お前の誕生を心待ちにしておった者たちじゃ。』
「そう言われてもな……。」
二郎は小声で返した。
猪俣は何も聞こえない様子で廊下を進んでいく。
やがて屋敷の最も奥にある大きな襖の前で立ち止まった。
「薫子様。」
「二郎様をお連れいたしました。」
中から落ち着いた女性の声が返ってくる。
「入りなさい。」
猪俣が静かに襖を開いた。
広々とした和室。
床の間には見事な掛け軸と生け花が飾られ、中央には漆塗りの食卓が置かれている。
その奥に、一人の女性が静かに座っていた。
雪のように白い長髪。
澄み切った青い瞳。
年齢は二十代後半にも三十代前半にも見える、美しい女性だった。
深い紫色の豪華な着物を身にまとい、その姿には八木家当主としての威厳が漂っている。
女性は柔らかく微笑んだ。
「初めまして、二郎。」
「私は八木薫子。」
「八木家現当主よ。」
二郎は緊張しながら頭を下げた。
「は、初めまして。」
薫子は優しく頷いた。
「まずは食事にしましょう。」
「長く眠っていたのですもの、お腹が空いているでしょう?」
漆の蓋が開けられる。
季節の野菜。
焼き魚。
煮物。
椀物。
炊きたてのご飯。
色鮮やかな懐石料理が並んでいた。
「いただきます。」
二郎は恐る恐る箸を持つ。
一口食べた瞬間、思わず目を見開いた。
「うまい……。」
素材の味が口いっぱいに広がる。
思わず夢中で食べ始める二郎を見て、薫子は微笑んだ。
「その様子なら安心ね。」
しばらく食事を続けた後、薫子は静かに話し始めた。
「二郎には、お兄さんと弟がいるわ。」
二郎は箸を止めた。
「兄弟?」
「ええ。」
「長男・太郎。」
「次男・二郎。」
「三男・三郎。」
「あなたは三人兄弟の真ん中よ。」
二郎は黙って耳を傾ける。
「太郎は成長がとても早かったの。」
「幼い頃から優秀で、今では社会へ出て仕事をしているわ。」
「社会に……。」
薫子は静かに頷く。
「そして、お母様のひかる。」
その名を口にした瞬間、薫子の表情が少しだけ寂しげになった。
「ひかるは、あなたを産んでから意識が戻っていないの。」
二郎は息をのんだ。
「……え?」
「五年間、眠ったままよ。」
部屋に静寂が流れる。
「医師も符呪師も手を尽くした。」
「けれど、原因は誰にも分からない。」
薫子は視線を庭へ向けた。
「私たちは、いつか目を覚ましてくれると信じて待ち続けている。」
二郎は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
まだ会ったこともない母。
それでも、その話を聞くと不思議と悲しさが込み上げてくる。
「……三郎は?」
薫子は少しだけ表情を引き締めた。
「三郎は……。」
言葉を選ぶように間を置く。
「あなたたち兄弟の中で、一番ヨグ=ソトースの影響を強く受けて生まれた。」
「影響?」
「肉への渇望が強すぎるの。」
「理性では抑えきれないほどに。」
「そのため現在は、八木家が管理する奥多摩の山奥にある封印の社で暮らしている。」
「封印……。」
「ええ。」
「三郎自身を守るためでもあり、周囲を守るためでもある。」
二郎は言葉を失った。
兄は社会へ出て働き。
母は眠り続け。
弟は山奥に封印されている。
自分が思っていたより、この八木家には深い事情があるようだった。
薫子は静かに湯飲みを手に取る。
「焦らなくていいわ。」
「少しずつ、この家のことを知っていけばいい。」
二郎は小さく頷いた。




