第2話 目覚め
「……なんで、黒い山羊なんだよ!」
静まり返った和室に、二郎の叫び声が響いた。
鏡の中にいるのは間違いなく自分だった。
黒い毛並み。
頭から生えた二本の角。
黄金色の瞳。
身長は百二十センチほど。
どう見ても人間ではない。
「夢だ……そうだ、夢に違いない。」
自分の頬を思い切りつねる。
「いっ……てぇ!」
痛い。
ちゃんと痛い。
夢ではない。
「なんなんだよ、これ……。」
混乱しながら鏡を見つめていると、
頭の奥から突然、低く落ち着いた老人の声が響いた。
『ようやく起きたか。』
「!?」
二郎は飛び上がり、そのまま尻もちをつく。
「だ、誰だ!」
部屋を見回す。
押し入れ。
床の間。
天井。
誰もいない。
『上を見るな。ワシはそこにはおらん。』
「どこだ!」
『お前の中じゃ。』
「……は?」
頭がおかしくなった。
二郎は本気でそう思った。
『いや、お前の頭がおかしくなったわけではない。正確には尻尾じゃ。』
「尻尾?」
慌てて振り向く。
そこには黒い毛に覆われた山羊の尻尾があった。
そして、その尻尾の途中に――
ぱちり、と一つの目が開く。
「うわあぁぁっ!」
さらにその下が裂けるように開き、口が現れた。
『やかましい。耳が痛い。』
「尻尾がしゃべったぁぁぁ!」
『失礼なやつじゃのう。ワシは尻尾ではない。』
「じゃあ何なんだよ!」
『ワシの名はダニッジ。』
「ダニッジ?」
『お前の副脳じゃ。』
「副脳?」
『そうじゃ。お前は普通の人間ではない。だから脳が二つある。』
「いやいやいや!」
二郎は首をぶんぶん振る。
「人間に脳は一つだろ!」
『普通の人間ならな。』
ダニッジは平然と言った。
『だが、お前は普通ではない。』
「十分分かってるよ!」
鏡を指差す。
「どう見ても普通じゃない!」
『うむ。その認識は正しい。』
「正しいのかよ!」
二郎は頭を抱えた。
情報が多すぎる。
山羊になっている。
子供になっている。
知らない家にいる。
尻尾がしゃべる。
もはや何から突っ込めばいいのか分からない。
『安心せい。』
ダニッジは穏やかな口調で言った。
『お前は一週間ほど眠っておった。』
「一週間?」
『ワシとの融合に時間がかかってな。』
「融合?」
『説明は後じゃ。今は体を動かせ。長く眠っていたから筋肉が鈍っておる。』
その時――
「二郎様、お目覚めでしょうか。」
落ち着いた女性の声だった。
『来たようじゃな。』
「誰?」
『八木家の女中頭、猪俣じゃ。』
障子が静かに開く。
年配の女性が部屋へ入り、鏡の前で固まる二郎を見ると、柔らかく微笑んだ。
「お目覚めになられましたか。二郎様。」
二郎は言葉を失った。
知らない屋敷。
知らない女性。
そして、知らない名前で呼ばれた。
「……俺のこと、知ってるんですか?」
猪俣は深く一礼する。
「もちろんでございます。」
「ここは奥多摩・八木家本家。」
「あなた様のお屋敷でございます。」
二郎は呆然と立ち尽くした。
自分の知らない人生が、もう始まっていたのである。




