第2話 「大丈夫」を信じるな
「大丈夫です」
その言葉が、本当に大丈夫だという意味とは限りません。
雨の夕方、菜々は交番を訪れ、夜遅くまでいられる場所を尋ねます。
芽衣はようやく、少女が隠していた小さな傷に気づきます。
翌週の木曜日、交番の前で雨が降り始めた。最初は細い糸みたいだった雨脚が、夕方には傘を強く叩くほどになる。濡れたアスファルトの匂いが、開くたびに自動ドアから流れ込んできた。
菜々が来たのは、午後六時すぎだった。
「こんばんは」
制服のスカートの裾が少し濡れていた。肩にかかった髪からも雨粒が落ちている。
「こんばんは。ずいぶん降っちゃったね」
「はい」
菜々は今日は何も聞かなかった。ただ、窓口の前に立ったまま、何か言いたそうに口を開いては閉じる。
「どうしたの?」
「……あの」
「うん」
「この辺で、夜遅くまでいられる場所ってありますか」
芽衣は一瞬、返事に詰まった。
「夜遅くまで、って」
「十時とか、十一時とか」
「高校生が?」
「はい」
菜々の声は平坦だった。けれど、その平坦さがかえって不自然だった。
「友達といるとか?」
「一人です」
「家は?」
「……」
菜々は視線を落とした。濡れた前髪のすきまからのぞく目が、ひどく疲れて見える。
そのとき、芽衣はようやく気づいた。右手首の内側に、黄色くなりかけた薄い痣がある。袖口に隠れるか隠れないかの場所。よく見なければわからないくらいの痕だった。
「菜々ちゃん、それ……」
「これ? ぶつけただけです」
「でも」
「本当に。大丈夫なんで」
笑った。笑ったのに、その顔は泣くのをこらえているように見えた。
芽衣は喉の奥がつまるのを感じた。
「少し座る?」
芽衣がやさしく言うと、菜々はしばらく迷ったあと、小さくうなずいた。
長椅子に腰を下ろした菜々の前に、芽衣は紙コップのお茶を置いた。ありがとう、と言った声はかすれていた。
「家に帰りたくないの?」
できるだけ静かに問う。菜々は紙コップを見つめたまま、すぐには答えなかった。
「……別に」
「じゃあ、どうして夜遅くまでいられる場所を探してるの」
「なんとなくです」
「なんとなくで?」
「……」
「菜々ちゃん」
名前を呼ぶと、菜々の肩がほんの少し揺れた。
「責めたりしないから」
「責めるとかじゃなくて」
「うん」
「言っても、どうにもならないし」
その言い方が、芽衣には妙に胸に刺さった。
「どうにもならないかどうか、今ここで決めなくていいよ」
「そんなことないです」
「菜々ちゃん」
「ほんとに大丈夫なんで」
さっきより、少し強い口調だった。ここから先には入ってくるな、と線を引く声。
芽衣は息を呑んだ。踏み込みたい。けれど、今ここで踏み込みすぎれば、たぶん二度と来てくれない。そう思った。
「わかった。じゃあ、今日はそれでいい」
「……はい」
「でも、夜遅くまで一人でいるのは危ないから、できればやめて」
「はい」
「それから、何かあったら、ここに来て。用がなくてもいいから」
「……はい」
その返事は、今まででいちばん小さかった。
菜々が帰ったあと、芽衣は交番の奥で立ち尽くしていた。うまくできた気がしない。何も聞き出せなかった。助けるどころか、ただお茶を出しただけだ。
そのとき、書類を見ていた久我が言った。
「“大丈夫”を信じるな」
「……」
「あれは、追いつめられた人間がいちばん使う言葉だ」
「でも、決めつけるのは違いますよね」
「決めつけるな」
「じゃあ」
「だが、見逃すな」
久我はそこで初めて、はっきりと芽衣を見た。
「お前がやるのは断定じゃない。可能性を捨てないことだ」
「可能性……」
「家に帰りたくない理由はひとつじゃない。親かもしれん。学校かもしれん。男かもしれん。本人の問題かもしれん。わからんうちは全部の可能性を持っとけ」
「はい」
「助けを求める人間が、最初から本当のことを言うと思うな」
その声は厳しかったけれど、責めている響きではなかった。
その夜、寮へ戻ってからも眠れなかった。天井を見つめながら、菜々の「言ってもどうにもならないし」という声が何度も耳の中で再生された。
芽衣が中学生のころ、同じクラスに千夏という子がいた。明るくて、絵が上手くて、昼休みによく笑う子だった。けれど二学期の終わり頃から、急に休みが増えた。登校してもぼんやりして、腕に長袖を巻きつけるようになった。芽衣は何度か「大丈夫?」と聞いたけれど、千夏はいつも笑って「平気」と言った。
卒業してから、その子が家に問題を抱えていたことを知った。
あのとき、もう一歩踏み込めていたら何か違っただろうか。そんなことを考える資格もないかもしれない。でも、あの「平気」を、芽衣はずっと忘れられずにいた。
翌日から、芽衣は交番の仕事の見方を少し変えた。
落とし物を届けに来た会社員の靴が片方だけ泥で汚れている。道を尋ねに来た高齢女性が、財布の中の住所メモを何度も確かめている。夫婦喧嘩の相談に来た男性が「いや、暴力とかじゃないんで」と先回りして言う。通報の中には、誰かの生活の綻びが混ざっている。綻びは、たいてい小さい。小さいからこそ、見落としやすい。
久我は相変わらず多くを語らなかったが、芽衣の報告が少し具体的になると、短くうなずくようになった。
「相沢菜々、本日来訪。制服の袖口で右手首を隠す動きあり。家の話題で返答が鈍る」
「うん」
「夜間一人で過ごせる場所を尋ねた。家に帰りたくない可能性あり」
「ああ」
けれど、菜々はそれから四日間、交番に来なかった。
四日目の夜、芽衣の無線に、胸騒ぎを現実へ変える通報が入った。
お読みいただき、ありがとうございます。
菜々の袖口に隠されていた痣。
家に帰りたくないという言葉にならない思い。
芽衣は見逃さないようにしようとしますが、菜々は突然、交番へ来なくなってしまいます。
そして四日目の夜、一本の無線が入ります。
最終話もお読みいただけたら嬉しいです。




