第1話 用があるようで、ないような顔
交番を訪れる人が、いつも本当に聞きたいことを口にするとは限りません。
新人女性警察官・小川芽衣が出会ったのは、何度も交番へやって来る一人の女子高生でした。
彼女が本当に探していたものは、道でも、公衆電話でもありませんでした。
どうぞ最後までお読みいただけたら嬉しいです。
四月の終わり、朝の空気はもう春というより、初夏の手前に近かった。
交番の前の街路樹はやわらかい緑を揺らし、通学の小学生が黄色い帽子を跳ねさせながら横断歩道を渡っていく。遠くでトラックがバックする電子音が鳴り、駅へ向かう会社員の足音が途切れなく続いていた。
小川芽衣は、制服の襟元をそっと直した。
警察学校を出て、地域課勤務になって、今日で二週間。交番の中に立っている自分の姿は、やっと少しだけ板についてきた気がする。けれど胸の奥ではまだ、何もかもが借り物みたいに落ち着かなかった。
「おはようございます」
芽衣が背筋を伸ばして言うと、机の向こうで交番日誌を確認していた久我直人が、ちらりと視線だけを上げた。
「おはよう」
それだけだった。
五十歳。巡査部長。元捜査一課刑事。
着任初日、地域課の先輩からそう紹介されたとき、芽衣は少しだけ身構えた。捜査一課、という響きには、それだけで人を緊張させる重みがある。
実際の久我は、怒鳴りもしなければ、無駄に威圧もしなかった。ただ、声が低く、言葉が短く、沈黙が長い。必要のないことは言わない。笑うところを芽衣はまだほとんど見たことがない。だから余計に、何を考えているのかわからなかった。
「立番、行ってきます」
「ああ」
また、それだけ。
交番勤務は、芽衣が思い描いていた「警察官の仕事」とはずいぶん違っていた。
落とし物の受理。道案内。自転車の防犯登録の確認。酔っぱらいの保護。迷子の対応。近所の騒音相談。犬の散歩中に財布を拾った人の話を聞き、認知症らしき高齢男性を家族のもとへ送り届ける。
午前だけで、受理票を三枚書き、道案内を二回し、自転車の相談に応じ、駅前でしゃがみこんでいた高齢女性の家族に連絡した。やることは切れ目なくある。誰かの役に立っていないわけでもない。それでも、夕方になるころには、胸の奥に言いようのない空白が残る日があった。
窓口の前に積まれた落とし物の封筒を見ていると、自分が思い描いていた警察官は、もっと別の場所にいるような気がしてしまう。
そんな考えがよぎるたび、芽衣は自分で自分を叱りたくなった。
午前九時を過ぎると、交番の前の人通りは少し落ち着いた。芽衣は窓口の書類を整理しながら、こっそり息を吐く。
そのとき、自動ドアが開いた。
「すみません」
入ってきたのは、制服姿の女子高生だった。
白いシャツに紺のリボン。丈の長すぎないスカート。紺のソックス。肩からかけたスクールバッグには小さなキーホルダーがふたつ揺れている。どこにでもいそうな、ごく普通の高校生に見えた。
「はい、どうしましたか?」
芽衣が笑顔で立つと、少女は少しだけ安心したように目を瞬かせた。
「あの、この近くに公衆電話ってありますか」
「公衆電話?」
「スマホ、充電切れちゃって。家に連絡したくて」
今どき珍しいな、と芽衣は思いながらも、表には出さなかった。
「駅前のコンビニの角を曲がったところにありますよ。歩いて三分くらいです」
「ありがとうございます」
少女は小さく頭を下げ、すぐに出ていこうとした。けれど、ドアの前で一瞬だけ立ち止まり、振り返るように外を見た。その動きが妙に引っかかった。
誰かを待っているのか、誰かがいないか確認しているのか。ほんのわずかな間だったけれど、その視線には落ち着きのなさがあった。
芽衣が「大丈夫?」と声をかけようとしたときには、少女はもう交番の外に出ていた。
「知り合いか」
背後から低い声がした。振り向くと、久我が窓口の奥から外を見ている。
「いえ、初めてです。高校生の子で、公衆電話の場所を」
「そうか」
久我はそれ以上何も言わず、また視線を書類へ戻した。
その日の夕方、芽衣は近くの商店街を巡回していた。揚げ物の匂い、八百屋の威勢のいい声、学習塾へ急ぐ小学生たち。見慣れ始めた町の風景の中に、朝の女子高生の顔がふいに浮かぶ。
交番に戻ると、久我が窓口に立っていた。
「巡回、終わりました」
「ああ」
芽衣は報告書のメモを出しながら、思い切って口を開いた。
「久我さん、今朝の高校生の子、ちょっと気になりませんでしたか」
「どこがだ」
「なんとなくですけど……落ち着かない感じで。誰かを気にしてるみたいな」
「なんとなく、で済ませるな」
ぴしゃりと返されて、芽衣は口をつぐんだ。
でも、久我は続けて言った。
「気になるなら、どこがどう気になったのか言葉にしろ。制服か、目線か、手の動きか、声の調子か。曖昧にすると見落とす」
「……はい」
「それと」
「はい」
「ああいう、用があるようでないような顔をして来る人間は覚えとけ」
芽衣は顔を上げた。
「用があるようで、ないような顔?」
「道案内でも落とし物でもない。本当に聞きたいことは別にあるが、それを口にできない。そういうのはいる」
久我はそこまで言うと、もう話は終わりだというふうに交番日誌へ視線を落とした。
その夜、芽衣は寮のベッドで天井を見ながら、何度もその言葉を思い返した。
本当に聞きたいことは別にあるが、それを口にできない。
翌日、その女子高生はまた来た。
「すみません、この辺でいちばん遅くまでやってる本屋ってどこですか」
今度は本屋だった。
「本屋なら駅ビルの中が十時までですね」
「そうなんですね。ありがとうございます」
昨日と同じように礼を言い、同じようにすぐ帰ろうとする。昨日と同じように、ドアの前で少しだけ外を見る。
芽衣は今度こそ声をかけた。
「学校帰り?」
「え?」
「制服だから。近くの高校?」
「あ、はい」
少女は一拍遅れてうなずいた。笑顔を作っているのに、その笑顔が顔に馴染んでいない。
「よかったら、少し座ってく?」
窓口の横の長椅子を示すと、少女は驚いたように目を見開いた。
「いえ、大丈夫です」
「喉乾いてない? お茶くらいならあるよ」
「ほんとに大丈夫です」
少しだけ強い声だった。芽衣は慌てて引き下がる。
「そっか。ごめんね。何かあったらいつでも来て」
「はい」
少女は頭を下げて出ていった。
その背中を見送っていると、奥から久我の声が飛んできた。
「追うな」
芽衣は振り返る。
「え?」
「今のタイミングで外まで出るな。相手が逃げる」
「……わかってます」
「わかってない顔だ」
むっとした。けれど、久我の表情は相変わらず動かない。
「気にかけるのと、追いつめるのは違う」
「……はい」
その日から、少女は二、三日おきに交番へ来るようになった。道を聞く日もあれば、近くのカフェの場所を尋ねる日もある。証明写真機はどこにあるか。いちばん近いドラッグストアは。質問はどれも些細なもので、交番でなくても聞けるようなことばかりだった。
芽衣はそのたびに、少しずつ言葉を足した。
「今日は暑いね」
「学校、もう終わり?」
「この辺、初めて来たの?」
少女は最初こそ短く答えるだけだったが、何度か顔を合わせるうちに、少しずつ警戒をほどいていった。
「相沢菜々です」
名前を聞けたのは四回目に来たときだった。
「高校二年生?」
「はい」
「部活してる?」
「前はしてたけど、今はやめました」
「そっか」
菜々は細い指でバッグの紐をいじりながら、目を合わせたり逸らしたりした。芽衣は無理に踏み込まないように気をつけた。焦るな、追いつめるな。久我の声が頭の隅に残っていたからだ。
「芽衣さんって若いですよね」
「え、そう見える?」
「見えるっていうか、若いです。たぶん」
「たぶんって何」
「なんか、話しやすいです」
そう言って菜々が少し笑ったとき、芽衣は胸の奥がふっとあたたかくなるのを感じた。
その数日後、菜々は窓口の前でふいに言った。
「ここ、静かですね」
「静か?」
「交番って、もっと怒られる場所かと思ってました」
「そんなことないよ」
「前に、自転車のことで一回だけ別の交番行ったとき、すごい怖くて」
「ああ……それは運が悪かったね」
菜々は少し笑った。芽衣もつられて笑う。
「でも、芽衣さん、あんまり聞きすぎないですよね」
「え?」
「普通、もっといろいろ聞くのかと思ってました」
「聞いたほうがいい時もあるけど、今は違うかなって思って」
「どうしてですか」
「無理やり話させても、しんどいだけでしょ」
菜々は一瞬だけ目を伏せた。
「変なの」
「変かな」
「でも、ちょっと助かります」
その言葉は小さかったけれど、芽衣にははっきり届いた。
菜々が帰ったあと、芽衣は書類を整えながら言った。
「今の子、相沢菜々って言うんです」
「聞こえてた」
「少し、話してくれるようになりました」
「そうか」
「でも家のことは話しません。学校の話はするのに、家のことになるとすぐ終わらせる感じで」
「手は見たか」
「え?」
「手首。袖口。爪。靴」
芽衣は瞬きをした。
「そこまで……見てません」
「見ろ」
久我はそれだけ言った。
その言葉の意味を、芽衣は翌週、雨に濡れた菜々の右手首で知ることになる。
お読みいただき、ありがとうございます。
何度も交番を訪れる菜々と、彼女の小さな違和感に気づき始めた芽衣。
久我の言う「見る」とは、ただ姿を見ることではありません。
次話では、菜々が隠していたものが、少しずつ見え始めます。
続きもお読みいただけたら嬉しいです。




