最終話 交番の明かりのそばで
四日間、交番へ来なかった菜々。
そして夜の繁華街で入った、未成年者保護の無線。
芽衣はついに、菜々が隠していた苦しさと向き合うことになります。
小さなSOSを見逃さないために、交番の明かりのそばでできることとは何なのか。
最終話です。
雨が上がり、空気が急にむっと重くなった週末の夜だった。駅前の飲食店から酔客の笑い声が漏れ、コンビニ前には学生らしい若者がたむろしている。芽衣と久我は、繁華街寄りの巡回に出ていた。
無線が入ったのは午後十時すぎだった。
「未成年と思われる女性が、男性とともに雑居ビル前で長時間滞留。声かけ願います」
現場に着くと、ビルの壁際に、黒いパーカーの男と制服姿の少女が立っていた。男は三十代くらい。にやついた目でスマホを見ている。少女はうつむき、バッグの紐をぎゅっと握っていた。
その横顔を見た瞬間、芽衣は足が止まりそうになった。
「菜々ちゃん」
少女がはっと顔を上げる。暗い街灯の下で、その顔は青ざめていた。
男が怪訝そうにこちらを見る。
「何すか」
「警察です。年齢確認させてください」
「別に何もしてないっすよ。話してただけ」
「話はあとで聞きます」
久我の声は低かったが、相手の反発をそれ以上許さない硬さがあった。
結局、男は補導の対象になるような直接行為は認められなかったが、未成年者への不適切な接触が疑われる状況として聴取されることになった。菜々は保護のため、交番へ同行することになった。
戻るまでの車中、菜々は一言も話さなかった。芽衣も何を言えばいいのかわからず、拳を膝の上で握ったまま窓の外を見ていた。
交番に着くと、久我が淡々と手続きを進めた。水を出し、記録の準備をし、関係機関への連絡の段取りを確認する。その手際のよさは無駄がなく、静かだった。
芽衣は菜々の前に座った。
「怖かったよね」
「……別に」
「別にじゃないよ」
「私が勝手にいただけだし」
「どうして、あんなところにいたの」
「家に帰りたくなかったから」
ついに、菜々はそう言った。
「帰ると、また始まるから」
「何が」
「お父さんが、お酒飲むと怒鳴るんです」
菜々はそこで一度だけ息を吸った。
「最初は、帰ると機嫌が悪いくらいでした。でも最近は、皿とか灰皿とか、近くにあるものを投げるようになって。壁に当たるときもあるけど、私に当たるときもあります。お母さんは、その日は早く部屋に入りなさいって言うだけで」
「……」
「私が静かにしてれば大丈夫、ってずっと思ってました。でも、お酒の匂いがしただけで、もうだめで。玄関の前で息ができなくなるんです」
「学校の先生に言ったことは?」
「あります。でも、大変だねって言われて終わりました。前よりは気にしてくれるようになったけど、家が変わるわけじゃないし」
「親戚とか」
「いません」
「友達は」
「迷惑かけたくないです」
菜々はそこで初めて、少しだけ声を震わせた。
「私、別に大げさなことじゃないって思ってたんです。骨が折れたわけじゃないし、血が出るようなこともそんなにないし。だから我慢できるって。でも、最近、帰る時間になると息が苦しくなって。スマホで、家に帰れない子、とか検索して」
「……」
「今日の人も、泊まれる場所知ってるって言うから」
あと少し遅ければ。もし、久我と一緒に巡回していなかったら。もっと危険な目に遭っていたかもしれない。その可能性が、遅れて背筋を冷たくした。
「ごめんなさい」
菜々がうつむいて言った。
「何で謝るの」
「迷惑かけたから」
「そういうことで謝らなくていい」
強く言い切ったつもりだったのに、自分の声が震えていた。
手続きがひと段落し、関係機関との連絡も進んだあと、菜々は別室で少し休むことになった。支援につなぐための段取りが整うまで、今夜は安全を確保する必要があった。
交番の奥の小さな休憩スペースで、芽衣は自販機の紙コップを持ったまま立ち尽くしていた。コーヒーはぬるくなっているのに、一口も飲めない。
「私、もっと早く気づけたかもしれないです」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「何回も来てたのに。あんなにわかりやすく、帰りたくないって顔してたのに。私、話しやすいって言われて、ちょっと嬉しくなって、それで……ちゃんと見てるつもりで、全然見えてなかった」
「そうか」
久我は壁にもたれたまま、低い声で言った。
「私、警察官失格かもしれないです」
「一件で決めるな」
「でも」
「一件で決めていいほど、この仕事は軽くない」
久我は紙コップのふたを開け、ひと口だけコーヒーを飲んだ。
「昔、同じような家があった」
芽衣は顔を上げた。久我が自分の過去を話すのを、初めて聞く。
「通報は何度か入ってた。酔った父親の怒鳴り声、割れる皿の音、夜中の泣き声。行けば、たいてい“夫婦喧嘩です”“もう大丈夫です”で終わった」
「……」
「半年後、その家で事件が起きた」
久我の声は低く、平坦だった。
「酒に酔った父親が刃物を持ち出した。娘に向かったのを、母親がかばった」
そこで久我は一度だけ言葉を切った。
「母親は、後ろから刺されて亡くなった。娘も止めようとして怪我をした」
芽衣は息をのんだ。
「犯人は捕まった。送った。書類の上では終わった」
「……」
「だが、終わってない。あの家は、もっと前から壊れる音を出してた。俺たちは、それを知るのが遅かった」
休憩スペースの蛍光灯が、かすかに唸っていた。外では誰かの笑い声が遠くで弾けて、すぐに消えた。
「捕まえても、遅い時がある」
「……」
「だから俺は、今ここにいる」
「交番に……」
「事件が起きたあとだけ見てても、足りないってことだ」
久我はそう言って、紙コップをゴミ箱に落とした。
「ここには、もっと手前の顔が来る」
芽衣は何も言えなかった。ただ、その短い言葉のほうが、かえって胸に残った。
「俺も見落とした。だから、お前も見落とすことはある」
「……」
「だが、見落としたと思ったら次に繋げろ。同じ見落としを繰り返すな。それが仕事だ」
芽衣はゆっくりとうなずいた。
翌朝、空は驚くほど晴れていた。
夜のあいだに支援の段取りが進み、菜々は学校や関係機関を通じて保護と相談のルートへつながることになった。すぐにすべてが解決するわけではない。父親が変わる保証もないし、家庭が急に安全な場所になるわけでもない。でも少なくとも、菜々は「一人でどうにかするしかない」場所からは少し離れられる。
午前十一時ごろ、菜々は制服姿で再び交番に来た。昨日より顔色がましだった。まだ不安は残っているはずなのに、その目にはほんの少しだけ、生気が戻っていた。
窓口の前で立ち止まったまま、菜々はすぐには口を開かなかった。代わりに、カウンターの端を指でそっとなぞる。
「学校、どうだった?」
芽衣が先にそう聞くと、菜々は少しだけ肩の力を抜いた。
「……普通でした」
「そっか」
「でも、なんか変でした。みんな普通なのに、自分だけ昨日の続きみたいで」
「そういう日、あるね」
「ありますか」
「あるよ」
菜々はそこで小さくうなずいて、それからようやく言った。
「昨日は、すみませんでした」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「来てくれてよかった」
菜々はしばらく黙っていた。何か言いたいのに、ちょうどいい言葉が見つからないみたいに。
それから、視線を外したまま、ぽつりと言った。
「……この前のお茶、あったかかったです」
芽衣は一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。
「また飲みにおいで」
「用がなくても?」
「用がなくても」
「……はい」
菜々は深く頭を下げた。帰っていく背中はまだ細く頼りない。でも、最初に交番へ来たときより少しだけ、足取りがまっすぐだった。
午後、交番前の横断歩道で、制服姿の女子中学生が一人、青になっても渡らずに立ち尽くしていた。スマホを握る手がわずかに震えている。通り過ぎる人はいても、誰もその子を見ない。
芽衣は無意識に一歩踏み出しかけて、ふと止まった。追いつめるな。だが、見逃すな。
呼吸をひとつ整えてから、彼女はやわらかい声で近づいた。
「どうしたの。帰りたくない感じ?」
少女はびくっと肩を震わせ、慌てて「ちがいます」と言った。けれど目は赤かった。
「そっか。じゃあ、少しだけ座る?」
芽衣は交番の前のベンチを指した。少女は少し迷ってから、小さくうなずいた。
その様子を、交番の中から久我が見ていた。
少女が座るのを待って、芽衣はすぐに問い詰めたりしなかった。最初の頃の自分なら、急いで理由を聞いていたかもしれない。けれど今は、足を止めてもらうことのほうが先だとわかる。
しばらくして少女は、塾に行きたくなくて立ち止まっていたのだと、小さな声で話しはじめた。深刻なことではない。ただ、泣く前に誰かに少しだけ見つけてほしかった顔だった。
「しんどい日もあるよね」
芽衣がそう言うと、少女はこくんとうなずいた。
それだけで十分だった。
夕方、通学路の立番を終えて交番に戻ると、窓から斜めの西日が差し込んでいた。久我はいつものように机に向かっていた。
「戻りました」
「ああ」
相変わらず愛想はない。
芽衣は少し迷ってから、言った。
「さっきの子、塾に行きたくなかっただけでした」
「そうか」
「でも、足止めてよかったです」
「ああ」
「……昨日までの私なら、たぶん見て終わってました」
「かもな」
それだけなのに、芽衣は少しうれしかった。
勤務の終わりに、芽衣は交番日誌を整理した。出来事を時系列で記し、必要事項を確認し、報告書類をそろえる。久我が最後に日誌へ目を通し、ペンを置いた。
「小川」
「はい」
「今日の声のかけ方、悪くなかった」
「……ありがとうございます」
久我は怪訝そうに眉を動かしただけで、特に何も言わない。
交番の外に出ると、空は藍色へ変わりはじめていた。街灯がひとつ、またひとつと灯る。駅から流れてくる人の波の中に、買い物袋を提げた人、塾へ向かう子、疲れた顔の会社員、手をつないだ親子がいる。
交番の窓からこぼれた灯りが、歩道の端をやわらかく照らしていた。
そのとき、交番の中から電話のベルが鳴る。
芽衣は一度だけその明かりを振り返り、もう一度ドアを開けた。
夜の歩道に、交番の灯りが静かに落ちていた。
― 完 ―
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語では、誰かを救うことを、大きな事件を解決することだけではなく、言葉にならない違和感に気づき、足を止め、話せる場所を残すこととして描きました。
菜々の問題は、すぐにすべて解決したわけではありません。
それでも、一人で耐えるしかなかった場所から支援へつながったことは、確かな一歩です。
そして芽衣もまた、菜々との出会いを通して、目の前の人を本当の意味で「見る」警察官へと歩き始めました。
交番の明かりが、誰かにとって「ここなら立ち止まってもいい」と思える光でありますように。
お読みいただき、本当にありがとうございました。




