5-6: 人は『ここではないどこか』に自分を探そうとするが、自分探しをするなら、遠くではなく近くを見るべきだ。
ネクロノミコンから、不定形の何かが現れた。
粘つく墨のようなそれは、本から垂れるように地面に落ちる。
それは鳴き声なのか、それともそう聞こえるだけの躰の軋みなのか分からない、不気味な音を発していた。
テケリ・リ
テケリ・リ
「殺せ」
ワイルドが、冷徹な声で言った。
一切の光を吸収するかのようなその真っ黒なスライムは、突如その一部を槍のように伸ばし、僕とレーヴを同時に刺突しようとした。それを間一髪で避けつつ、今の今にワイルドが言った『殺せ』という命令を考える。
そうか、ワイルドは銀の鍵を持っているから、やり直せる。
ここで僕らを殺してしまっても、少なくともこの時間に再創造されるはずのレーヴと鉢合わせることさえなければ、その前に時間を巻き戻すつもりなのか。
──時間を、巻き戻す?
ふと、何か違和感があった。
それは、何かが矛盾してしまうのではないか。
しかし僕がその先を考えるよりも前に、不気味な音を発するその不定形の何かが次の刺突を試みる。どうやら、黒いスライムはその形を自由に変えられるらしい。
「──気付いているかい、助手くん」
レーヴが、勝機を得たという顔をして言った。
そうだ、勝機はある。
恐らく、ワイルドの側でもここでの騒ぎを大きくできるわけではないのだ。ここは、あの日、あのとき、誰にも観測されていなかった場所だ。だからこそ、こうして僕らが存在してもパラドックスが起こっていない。
しかし、もしもここで派手な戦いをして騒ぎになれば、確実に歴史は変わってしまうだろう。その影響を受けるのは、ワイルド・ワイアードも例外ではないのだ。
戦いは最小限の影響で住まさなければならない。
だから、ワイルド・ワイアードは、あの不気味な巨大生物ではなく、この小さな不定形の化け物を召喚することしかできなかったのだ。
──とは言え。
「──きみたちがたとえ幼体でもショゴスをどうにかできるかどうかは、また別の話だがね」
そう、ワイルドの言う通りだ。
彼が言うショゴスの幼体である黒いスライムは、徐々に僕らの動きを学習しつつあった。
僕らの反応速度を計算に入れるだけでなく、その後の動きまで予測しつつある。
このままでは防戦一方だ。
「──レーヴ! すべてを取り戻す方法は邪神から聞いたか!」
「聞いてる!」
「じゃあ、それをしろ!」
限られた時間の中で、最小限の言葉でやり取りをする。
もちろん、それができれば苦労はしない──と、普段なら思うだろう。
けれど、僕が『それをしろ』と言った。
レーヴはそれを聞いて、『そうすれば良い』と思ったはずだ。
だから僕は、レーヴがそれをするために、やるべきことをやるだけだ。
「いくよ!」
レーヴの決意に、僕は無言で応えた。
レーヴが、自分の首なし死体へと突っ込む。
ショゴスの幼体が、それに反応して刺突を試みる。
それは完璧な計算による、完璧な一撃だった。
──が、その動線上に、僕が突っ込む。
「お前の学習は、全部『致命傷を避ける反応』だからな。死ぬ気で突っ込んでくる動きが、計算から抜け落ちてるのさ」
僕の予想外の動きに、ショゴスの幼体が一瞬固まり、狙いが逸れた。
刺突が、僕の脇腹を掠める。
その瞬間に、レーヴが、自分の半身に触れた。
「──ま、僕は諸事情あって、死ねないんだけどさ」
一瞬、光が溢れた。
シュテルンの首のない半身が、それに包まれてレーヴに吸収されていくのが分かる。
「ショゴス! 魔女を殺せ!」
ワイルドが叫んだ次の瞬間、ショゴスと呼ばれていたその化け物が炎に包まれた。炎は暫く裏路地を照らし、化け物はあの不気味な叫び声をあげたが、やがて燃え滓ひとつなく化け物を焼き払ってしまう。
火が消えたとき、裏路地はまた静寂と薄闇に包まれていた。化け物がいた痕跡は焦げ痕程度のものだったが、それもこの闇の中では目立たない。
「形勢逆転、二対一。改めて自己紹介しておこうかな」
と、レーヴがワイルドに向かって言った。
「ボクは星の智慧派、第五の角、シュテルン。今は、レーヴ・シュテルン・レヴェリ。以後、お見知りおきを──たとえ、灰になっても」
【ショゴス】
かつてある種族が道具として生み出した、不定形の生物。あらゆる道具として使える便利な生物道具であったはずのショゴスとその種族の歴史を、ある北極探検部隊が目の当たりにするのが、有名な『狂気の山脈にて』の原作です。




