5-5: 矛盾が存在するのは、それが理論だからだ。現実的には、矛で盾を突けばただひとつの結果だけが残る。
扉を抜けた──と、そう思った次の瞬間には、見覚えのある袋小路に立っていた。
少し肌寒く、薄暗いが、月が輝いている。星の瞬きは、まるで何かを囁いているかのようだった。あるいは本当にそうなのかもしれない、僕がそれを聞くことができないだけで。
そして目の前には、死体があった。
一度は──いや、ターラが操ったときにも見たはずの、死体。頭部がなく、そこから血がワインをこぼしたように流れている。血の河に月明かりが反射して、まるで星雲だった。
この死体について、誰もその素性を語らなかったことに、ふと思い至る。
この僕自身もそうだ。男か女かさえ、あるいは死体を操っていたターラさえ、この死体の素性に言及しなかったし、意識も、認識も、していなかったと思う。主観的には、それを不自然だとも思わなかった。
だがそれは多分、シュテルンという人間の人格──アイデンティティが、この骸に存在しないからだったのだろう。これは、人格以外のモノなのだ。椅子や机を、同種のそれ以外と意識して区別したりは、普通はしない。それと同じだ。これは、区別する必要が、そもそもないモノなのだ。
顔がないから分からないのではない。
分かろうとする発想そのものが、抜け落ちるのだ。
今でさえ、これがシュテルンの死体だと知識としては知っていても、その実感はまったく得られなかった。
周囲には誰もいない。
僕だけが、あの日、あの夜の、死体発見現場にいる。
では、僕は何を考えるべきだろうか──と、考えるべきことを考えようとしたとき、声がした。
「ふたつ、教えておこう」
声はニャルラトホテプだった。あの邪神は誰にでもなれるのだから、そう断言することは本来はできないはずだが、しかしそれでも、それがあの邪神の声だと確信できた。
「ひとつ。間もなく、そこにワイルド・ワイアードとレーヴ・レヴェリが来る。ふたりとも、わざわざ私に会いに来てくれたので、きみと同じように報酬を与えた。その上でどうするかを、私は愉しみにしている」
「状況が分かりやすくて助かる。もうひとつは?」
「それから間もなく、シュテルンがそこに再創造される」
「……なんだって?」
「今きみがいるのは、シュテルンという存在がふたつに分かれ、その半身──死体の方だけがセレファイスの裏路地に現れた状態だ。そこに間もなく、レーヴ・レヴェリとして再創造された存在が顕現する。すると、どうなると思う?」
「……まさか」
「そう、もしもそこに今のレーヴ・レヴェリが存在すれば、矛盾が起こる。起こってはいけない類いの、絶対に有り得てはいけないパラドックスが起こる」
「すると──どうなる?」
邪神は、きっと口元を邪悪に歪めながら、愉悦を滲ませて言った。
「すべてが、こわれる」
すべてが、こわれる?
「すべてが破滅する。もう取り返しのつかない終わりが来る。それは例えば、小説のページを途中で破って棄ててしまうようなことだ。映画が映る銀幕を燃やしてしまうようなものだ。見ている夢から覚めるようなものだ。そうなれば、もう二度と、すべては元には戻らない」
銀の鍵を使っても、矛盾は決してあってはいけない。
クラネス王がそう言っていたのを思い出した。
「いやそもそも、きみが先にそこにいるのを見られたら、あるいはワイルド・ワイアードがそこに存在してしまったら、過去が変わってしまう。するとどうなると思う?」
「……今の僕たちがあり得なくなる。だから、今僕が意識している世界戦が、僕たちごと消える──ってことだろ」
「そういうことだ。いわゆるタイムパラドックスというものだよ」
やはり邪神──厄介だ。
タイムパラドックスが起こりやすい状況を意図的に作って、それを愉もうという腹か。
「それなら、パラドックスを回避するのは簡単だ。レーヴ・レヴェリという存在が過去に顕現する前に、ワイルドさんとの戦いにけりをつける。そして全員がこの場を離れる──それで良いんだろ?」
「それができるかどうか、愉しみにしているよ」
そう言って、ニャルラトホテプはげらげらと嗤った。
本当に楽しそうに、面白い冗談を聞いたみたいに。
その『可笑しい』と思う感覚が人間のそれとはまったく違うことが分かるみたいに。
ひょっとすると、そのとき初めて、僕はニャルラトホテプという邪神に恐怖した。
僕の恐怖さえ愉しんでか、やがて邪神の気配が消えた。
そして、それと同時に、別の声がした。
「ナギ! 無事だったか!」
「ナギ、無事だったのだね」
恐らく僕と同じようにだろう、レーヴとワイルドが、暗闇から姿を現した。
レーヴはすぐに僕に駆け寄ったが、ワイルドは僕から距離を取ったままだった。それは言葉よりも雄弁であり、僕たちの立場が相容れないことを示しているかのようだった。
「──ワイルドさん、一応確認しますが──今、何をしようとしていますか?」
「分からないかい。この銀の鍵を使い、私の意志で、世界をやり直そうとしている」
「分からないわけじゃありません。だから確認だと言いました。しかし、分からないこともある」
「なんだい」
「そもそも、どうしてそんなことをしたいんです? 良いじゃないですか、セレファイスはとても良い都──理想郷です。どうして、それを壊すようなことを?」
「銀の鍵を手に入れた者なら、誰でも考えるさ。これさえあれば、自分の理想の世界を作れる──とね。最初はただ、私も世界の秘密が知りたかっただけさ。王室護衛軍から時折来る、よく分からない指令。それに従うと、いつもセレファイスは良い方向に進んでいく」
ワイルドは、間接的とは言えこのセレファイスの理想化に強く関わっていたことになる。自分が本当は何をしているのか、それを知りたいと思ったとしても、それ自体は不思議ではないとは思う。
「だから私は思ったのだよ。きっと王室護衛軍──あるいはその上の国王には、セレファイスを良い方向に導くための、千里眼のような何かがあるのだと。銀の鍵の存在を知っていたわけではない。まして、それが時間をやり直す道具だなどとはね。ただ、何かがあるとは思っていた。王室護衛軍の指令の向こう側に、セレファイスを都合よく整えるための、何かがあるのだろうと。私は、それを知りたかった。それを知ってみたいと思った。それがたまたま、この銀の鍵という道具だったのさ」
「本当に?」
と、レーヴが言った。
「本当は、怖かったんじゃないの。それか、不安だったんだ」
「どういう意味だね、探偵?」
「ただの推測だよ。躰を抱き込むように座る癖は自分を守りたいという防衛本能で、高い椅子を好むのは状況を俯瞰し、分からないことがないようにしたいから。あの部屋から滅多に出なかったのは、単純に外が怖かったからだ──と、ボクは思ってたからさ。ワイルド・ワイアード。あなたの理想とは、『不安がないこと』なんじゃないの? それって、クラネス王とどれくらい違うのさ?」
「──探偵殿の推理が正しければ、その通りだね。正しくなければ、何の意味もない。ただ、私は理想を求めてここまで来た──それは確かだよ。しかし、きみは違うのかい、ナギ」
名前を呼ばれて、思わず過剰に反応してしまった。
「何がです?」
「きみもまた、理想を追い求めているからこそ、私を止めようとしているのだろう?」
ワイルド・ワイアードから鍵を取り返したら、僕はそれで元の時間に戻る。そして、鍵を壊す。そうすれば、セレファイスは未知なる未来へと歩み始めることになる。
ワイルドはそれを見越して僕を挑発したのか、それとも──。
──いや、そんなことを考えても、仕方がないか。
「交渉決裂ですね。では、残念ですが──あなたとはここまでだ」
「本当に残念なことだ。退職手当は出ないよ」
そう言って、ワイルドはネクロノミコンと輝くトラペゾヘドロンを構えた。
「大丈夫です。もう再就職先は決まってますから」
そう返して、僕はレーヴを見た。
レーヴは、嬉しそうに微笑んだ。




