5-4: あまりにも摩擦なく物事が進むなら、地に足がついていない可能性を考慮すべきだ。
「さて、きみはどうする」
と、真相を僕に見せたニャルラトホテプが言った。
いつの間にか、世界はまた真っ白、闇、あるいは無に戻っていた。
僕は、今まで自分が見ていた過去の出来事を、頭の中で反芻していた。
このセレファイスは、銀の鍵という道具で死がないよう、理想の状態を維持できるよう、何度もやり直している。
その真相を知ることは許されない。しかし、シュテルンはそれを知るに至った。
そのため、シュテルンは、人格とそれ以外のふたつに分けられ、人格の方はレーヴ・レヴェリという存在に再創造された。その上、二度とセレファイスの真相に興味を持たないよう、お誂え向きの難事件と、それを解決する役割を与えられた。
セレファイスに突如現れた身元不明の死体は、その難事件の被害者──シュテルンであり、レーヴの『人格以外の方』だった。
今、僕はその真相を知った。決して知ることを許されない真相を。
本来なら僕も、クラネス王に存在を消されてしまうかもしれない。
それは僕という人間の死だと、僕は思う。
仮にまったくの別人として、僕の複製が存在したとしても、やはり僕は死んだことになると思う。
だとすれば、僕は例外だ。
僕は、ムングとの契約によって死なないのだから。
その僕が、真相を知ったその先で、何をするか──と、ニャルラトホテプは、千の顔を持つ邪神は、問うているのだ。
「多分、僕は死なない──けれど、きっと二度と自由ではないだろう」
と、ニャルラトホテプに半分、独り言として半分の気持ちで、僕は言った。
そうだ、何も口封じであれば殺す必要はない。
僕はただ死なないだけで、それ以上に特別な能力を持つわけでもないのだから。
「なら、すべきことはひとつだ」
「ほう」
「銀の鍵を、壊そう」
「おぉ」
ニャルラトホテプが楽しそうに言った。
物語の続きを心待ちにしているような、そんな抑揚で。
「銀の鍵さえなければ、僕が何を知っていたとしても意味がない。もう、セレファイスはやり直せないし、死者も出るようになると思う。事故も事件も、不幸も起こると思う。でも、世界というのは、本当はそうあるべきだよ。僕らは、時々は失敗すべきだ。少なくとも、許容できる程度の失敗を」
「それは、失敗の余裕がある人間の発想ではないか?」
「そうかもしれない。だからこれは、贅沢なことだ。失敗できることは、成功できることよりも、贅沢なことなんだと思う。そして人は強欲だから、それを望む。クラネス王が、理想に倦いたように」
「だが分かっているのか? お前は今、自分の自由のために、理想を保つための仕組みを壊そうとしていると、そう言っているのだぞ」
「そうだよ。一応、正当化はできる。銀の鍵のために、セレファイスは未来に向かって時間が流れていないと、クラネス王は言っていた。それに、クラネス王はもう、元々いた世界に帰りたいとも言っていた。すべてを解決するために銀の鍵を破壊する──それは合理的だろ? でも、分かってる。これは僕のエゴだし、僕がひとりで決めて良いことでも、本当はないってことも」
「それでも、やるというのか?」
「だって、どうせ誰にも分からないことじゃないか。だったら──僕は、やりたいようにやるよ。どう考えたって結論が出ないことだから、僕は、僕がやりたいようにやる。そのための罰があるなら、それも受けるさ」
「それが、死ねないということなのかもしれないな」
ニャルラトホテプが、意地悪に言った。それは多分、僕を傷つけようとして、敢えてそう言ったのだと思う。
でも、僕はそれを軽口のように受け取った。だから、それを重く受け止めず、そうかも、とだけ言った。
「さて、邪神。そうなるとふたつ、知るべきことがあるんだ」
「なんだね」
「まず、銀の鍵の在処だ。多分ワイルドさんが持っていると思うけど、ここからそこにはどうやって行ったら良い?」
「それについては、私が助けてあげるよ」
「え? どうして?」
「その方が面白くなるからだよ」
「──じゃあ、もうひとつ。仮にワイルドさんと対峙しても、今はネクロノミコンまで持っているあの人に何も対策がなければ勝てないと思う。だから、レーヴにはシュテルンとしての能力を取り戻してもらいたい。分からないけど、炎の魔術を使うんだろ? それがあれば、多少は戦えるかもしれない」
「良いとも。そのためには、彼女本人に、あの死体に触れさせれば良い。この空間からなら、自由な瞬間に移動できる。ほら、そこに扉があるだろう」
と、言われて『そこ』と僕が思った方を見ると、そこには確かに扉があった。
さっきまではなかったような気がするが、多分本当はずっとあったのだと思う。
そういう場所だ、ここは。
「そこから、死体が現れたあの夜の裏路地に戻してあげるよ。レーヴ・レヴェリも一緒にね。彼女が自分の死体に触れたらひとつに戻れるよう、力を貸そう」
「──やけに大盤振る舞いじゃないか。どうしてそんなに協力してくれるんだ?」
「言っただろう? その方が面白くなるからだよ。白痴の神は退屈な夢に辟易していらっしゃる。その夢を少しでも楽しいものにするのが、私の役目なのでね」
正直、この邪神が何を考えているのかは分からない。
しかし、とにかく今この瞬間だけは、その助けが実際に助かることは確かだ。
「この扉の先に行けば、良いんだな?」
「そうだよ。ご武運を。観客席から見守っているよ」
ドアノブを回して、引いて、扉を開けた先は暗闇だった。
しかし、空間ではある。こことはまったく異質で、馴染みのある空間だ。
ただ、そこは夜なのだ。だから暗いだけだ。
「果たして、きみに世界が救えるかな」
扉が閉まる直前、邪神がそんなことを言ったような気がする。
自分が、何か、致命的な間違いを犯しているような気がしてならなかった。
【ニャルラトホテプ】
白痴の神、アザトースの意志の代行者であるともされる、這い寄る混沌。人間に友好的な面を見せることもあるものの、関わることは破滅を意味するともされます。
【アザトース】
盲目白痴の、夢を見る存在。諸世界はすべて、アザトースが見る夢だともされています。アザトースが目覚めるとき、夢であった世界は跡形もなく消えてしまうのかもしれません。だとすれば、アザトースに夢を見続けさせることが、世界を維持することであるはずです。




