5-3: 自身の存在の連続性を担保することは、本当に可能だろうか?
「これは、銀の鍵という」
クラネス王は、小さな鍵を右手で持って示した。まだクラネス王から距離を取りながら、シュテルンはそれを観察しているようだった。
「銀の鍵?」
「これは、時間を巻き戻すことができる道具だ。所有者だけが時間が巻き戻ったことを──巻き戻す前の時間のことを認識しつつ、過去に干渉できる道具だよ。そしてこれが、『セレファイスに死がない理由』だ」
時間を戻すことができる道具。
それこそが、セレファイスに死がない理由。
僕がその言葉の意味を消化しきる前に、シュテルンは既に答えを出していた。
「──死が起こる前に、それをなかったことにしているのか」
セレファイスに死がないのは、銀の鍵と呼ばれる時間を巻き戻す道具をクラネス王が持っていて、それによって死が起こる前に時間が巻き戻っているから。
スラデンは、クラネス王が的を射た指示を出して災厄を回避できるのを魔法の窓のお陰だと言っていた。
しかしそうではなかった。もっと確実な方法があったのだ。
「そして、きみならきっと別の疑問を覚えるだろう」
「──具体的に、どうやって死を回避しているか」
「その通り。やはりきみは賢いな。そして多分、その答えにも検討がついているだろう」
「名誉修理人とは表の顔で、実際には死を回避するための裏工作家業だったんだ」
「然り。ただし、本人はそのことを知らず、利用されているだけだがね」
セレファイスに死が起こったとき、クラネス王は銀の鍵によってそれをなかったことにする。その死が発生し得る遠因を、できるだけ遠くから排除することで、あたかも幸運で守られたかのように死は回避される。
セレファイスでは、苦痛がない。
セレファイスでは、怪我をすることもない。
万が一怪我をしたとしても、大事には至らない。
それはすべて、それが死に繋がっていた未来がなかったことにされていたからだ。
その遠因の排除を担っていたのが、王室護衛軍であり、また同時に、名誉修理人であったワイルド・ワイアードだった。ワイルドは銀の鍵については知らなかっただろう。銀の鍵について本当のことを知っていたのはクラネス王だけだったはずだ。しかし、クラネス王は、王室護衛軍を使うことで、厄災の遠因を排除していた。その名誉修理人とは、その二次受けだったのだ。
だがそのことを、使用者であるクラネス王以外の人々は認識できない。そもそもなかったことになっているものを認識できるはずもない。ステラの魔術と同じだ。
「それでもいくつか疑問は残る」
「そうだろうね。例えば?」
「例えば、老衰による死さえないのはなぜか? 本当にすべての死を回避することなど可能なのか? この辺りかな」
「老衰などの死がないのは、時間を堰き止めているからだよ。今のセレファイスはほとんど完璧だ。だから、これ以上変化する必要がない。故に、未来へ向かう時間を堰き止めている──退屈なことにね」
「それも銀の鍵の力で?」
「そう言っても間違ってはいない」
「じゃあ、本当にすべての死を回避することなんて可能なの?」
シュテルンの純粋な疑問に、クラネス王が、若干の感情を混ぜつつ応えた。
「それができたから、こうなっているわけだよ」
少しだけ、沈黙が続いた。
いや、続いた──という言い方も、正しくないのかもしれない。
そもそもこの場には、時間というものが流れていないのかもしれないのだから。
沈黙を破ったのは、少し意外なことに、クラネス王の方だった。
「だが、何でもありというわけではない。すべてをやり直せるわけではないし、あらゆる厄災を避けられるわけではなかった」
「というと?」
「現実を置き換える上で、矛盾することは許されない。厄災を避けるにも限度がある。何度回避しようとしても、結局起こってしまう事象だってある。きみがここに来たようにね」
「──それって」
「シュテルン、きみがここに来たのが何度目か、きみは知らないだろう」
この言葉には、流石のシュテルンも驚いたようだった。
しかし、有り得ない話ではなかった。
僕たちは、常にその瞬間を初めてだと思っている。
だが、何度もやり直された世界というものがあり得ると知れば、その前提は容易く崩れてしまうのだ。
「きみは、もう何度もここに来ている。その度に、何度もやり直してきみをここから遠ざけている。きみにこの話を聞かせないために、きみに真相を知られないために。だがきみは、何度も来る。星の智慧派のステラ──彼女の可能性をこじ開けてしまう魔術も良くない。それにきみは、ついに輝くトラペゾヘドロンを手にし、邪神の力まで借りてしまった。こうなるとお手上げだ」
「だから、すべてを話す気になってくれた、と?」
「まぁ、それが半分だ」
「半分?」
「この話を他人に漏らすわけにはいかない。自分が何度も同じことを繰り返しているかもしれないと本気で認識したり、死んだことがあるかもしれないと本気で信じたりしては、人は正気ではいられないんだ。このような話がセレファイスに広まる可能性は、絶対にあってはならない。そこで手荒な方法にはなるが──きみには、誰かにこれを話す前に消えてもらうしかなくなった、ということだ」
クラネス王のその言葉に、シュテルンが防御態勢を取る。
「殺すつもり? どうやって? 例外的にセレファイスで人を殺して、それで整合性が取れるつもり?」
しかしクラネス王は、何も動じることなく、ただこう言った。
「私が、きみを再創造するだけのことだよ」
「──再創造だって?」
「私は、このセレファイスの創造主だ。セレファイスにあるものは、すべて私が作った。きみひとりを再創造するくらいなら、大きな矛盾にはならない。きみはこれから、別人として生きる」
「ちょっと言ってる意味が──。ボクが別人になるってこと? でも、そんなことしたらボクを知っている人が異変に気付かないわけ──」
「もちろん、完全な齟齬の解消はできないだろう。だが、私はきみをこう再創造する。きみは、記憶喪失の名探偵、レーヴ・レヴェリだ。きみの役割は、難事件を解決することだ。その難事件も、ちゃんと用意しよう。そうすれば、生まれ変わってもなおこの世界の秘密に固執することはあるまい」
セレファイスには、苦痛がない。
事件と言えるような事件もない。
なら、どうしてそもそも『探偵』なんていう職業が存在したのか?
答えは簡単だ。作られたからだ。
レーヴ・レヴェリというキャラクターが、このセレファイスに生まれた初めての探偵だったのだ。
「──つまり、こういうこと? 王様は、今のこのボクの存在を消して、ボクという存在を作り直す。そのときには、記憶喪失の名探偵という『設定』にするって?」
「ついでに、名探偵のきみが解くべき事件も与えよう。正体不明の死体の謎の解明だ。セレファイスの謎なんてどうでも良いじゃないか。迷宮入り確実の難事件を、ぜひ追ってくれ」
「その死体って──?」
「今のきみだよ、シュテルン。私はこれから、きみという存在を分割する。その半身には、シュテルンとしてのきみの能力をすべて込める。もう半身には、きみの知識欲を含む人格だけを込め、それを新しい存在とする」
「さ、流石にそれはちょっと思ってたのと違うな──」
「大丈夫だ。きみの意識は一度途切れ、次に目を覚ますときにはレーヴ・レヴェリという存在になる。ただそれだけのことだよ。だが、きみの死体をそのまま残しては、きみは自分自身の顔を見ることになる。それはあまりにも矛盾が過ぎるし、ネタバレが過ぎる──ので、頭だけは潰しておく。次に目を覚ましたとき、きみの目の前にあるのは、きみ自身の首なし死体だ。きみがそれを認識する術はないがね」
クラネス王が言葉を続けている間に、シュテルンの躰は、存在は、どんどん薄くなっていった。自分が消滅しつつあることに焦りつつ、輝くトラペゾヘドロンを取り出して、シュテルンが叫ぶ。
「ニャルラトホテプ! 何とかしてくれ!」
気付くと、僕のすぐそばにいるはずのニャルラトホテプは笑いを堪えていた。
そして、過去の世界のニャルラトホテプが、同じく可笑しそうに言った。
「それは契約に含まれていない」
諦めず、シュテルンは何かの魔術を行使しようとする。多分それは、炎を操る魔術だった。
だが、その発せられた炎さえ、王に届く間もなく、まるで何もなかったかのように消えた。
そしてその瞬間には、既にシュテルンの姿は王室にはなかった。
彼女が手に持っていた輝くトラペゾヘドロンは、地面に落ちて真っ二つになっていた。
かくして、シュテルンという存在は消され、そしてレーヴ・レヴェリという存在が生まれたのだった。




