5-1: 客観的意見も、主観的に受け止めるしかない。
魔法の窓の先は、真っ白な世界だった。
例えば、白紙のスケッチブックに人間を小さくひとりだけ描いたような、そんな空間だった。
まだ上も下も、右も左も、奥行きさえもない、僕だけが存在する世界のような──。
僕だけ?
気付くと、レーヴの姿がなかった。
「レーヴ! どこだ!」
大きな声で叫んでみる。
しかし、声は何にも反響せず、ただ虚無に吸い込まれていった。
音がするということは、息ができているということは、空気はあるのだろうか。
つまり、ここは空間ではあるということだろうか。
入る直前は真っ黒に思えた世界が、どうして入り込んでみると白くなったのだろう。
いや、そうじゃないのだ、きっと。
この世界には、色さえまだ存在していないのだ。
白とか黒とか、それはただ無色を認識できない僕の代替的な理解なのだろう。
「レーヴ! いるのか!」
また叫んでみた。
一緒に飛び込んだはずの彼女は、どこに──。
「いるよ」
と、レーヴの声がした。
慌ててそちらを向く。
そこには、レーヴの姿があった。
「ごめんね、心配かけて。ボクは大丈夫。ま、名探偵だから、たとえ滝から落ちたって簡単には死なないけどね」
そう言って、レーヴはパイプとマッチを取り出した。
「誰だお前」
と、目の前のそれに、僕は言った。
「──あぁ、そうか、これは小道具だったね。失敗失敗。やはり火は駄目だ、いつも邪魔になる」
レーヴの姿をしたそれは、戯けるように言い、マッチを投げ捨てた。
見た目はレーヴだ。それは間違いない。声も間違いない。
しかし目の前のそれは、レーヴの形をしただけの何かだった。
「一体何者だ? どうしてその姿をしている? レーヴをどうしたんだ」
「質問が多いな。そんなにこの姿が気に入らないか?」
そう言って、レーヴの姿をしたそれは自分の顔を上から下に手のひらで撫でた。その動きと共に、撫でられた顔はまったく別の顔になった。
ワイルド・ワイアードの顔だ。
「こっちの方が良いか? いや、今は敵だったか? なら、これか?」
またそれは自分の顔を撫でた。
今度は、スラデンの顔になった。
「どうでしょう? あっしもこうして改めて見ると、結構男前でしょう? それとも」
またそれは自分の顔を撫でた。
今度は、シンシンの顔になった。
「わたしの顔の方が喋りやすいですか?」
「──まさか、お前は──」
千の顔を持つ存在。
誰にでもなりすまし、どこにでも存在し得る、星の智慧派が崇める邪神。
「そう、ご存知ニャルラトホテプです」
思わず後退りしてしまう。前も後ろも上も下もないのに後退りというのも変な話だが、躰が、本能が、その存在と距離を取ろうとしていた。
だが、
「逃げるなんて酷いじゃねぇか。仲良くやろうぜ」
直後、後ろからシーハンの声がした。
気付くと背後には、紛れもなくシーハンの姿があった。
「──!」
「別に取って食おうって話じゃない。せっかくこんな場所まで来たんだから、ご褒美をあげようと思ったんだよ。輝くトラペゾヘドロンを持っているということは、俺に用があったんだろ?」
「こんな場所? ご褒美?」
「そーだよ。あーしは、実は太っ腹なんだ」
気付くと自分の横に、ターラが立っていた。
そのあまりに突然の変化や移動に慣れず、つい驚いてしまう。
「ここはね、時間と切り離された場所なワケ」
瞬きする間に、ニャルラトホテプは次々に顔を変えた。
それは、ずっと同じ顔でもあったし、同時に、一瞬さえ同じ顔ではなかった。
ニャルラトホテプは、何かの姿になっているのではない。
同時に、すべての姿になっているのだ。
「あなた、『銀の鍵』を追って魔法の窓に飛び込んだでしょう」
「銀の鍵?」
「あっ、えっと、まだ知らなかったか……。じゃ、一回忘れてください、えへへ……それも、ご褒美に含めますから」
「それで、ご褒美っていうのは? 僕は、あなたに何かを望んだ覚えはないけれど……。それに、この水晶は、知り合いから──もらった? 預かったもので、僕が意識して持っているわけじゃ──」
「確かに、吾輩が何かを望まれたわけではない──が、吾輩とて、面白いと思ったなら無償で手を貸すこともある。以前はカダスから少年を救う手立てをしたこともあるくらいである。して、吾輩が与える褒美とは、真相である」
「真相?」
「そそ。レーヴちゃんが記憶を失う前に何があったのかを、見せてあげようかな、って話。ここは時間から切り離された世界なわけだから、まぁ、見せることもできるわけで、見てもらうのが早いかと思ってさぁ。気にならない? 一体、レーヴ・レヴェリに、記憶を失う前に何があったのか──あの死体は、本当は誰なのか」
気にならない──と言えば嘘になる。
けれど、それを知ることは、今重要なのだろうか、という気もする。
「当然、大事なことだと思いますよ。それに、私ならすべてを話せます。何せ、この私が、ニャルラトホテプが、レーヴさんに──つまり、シュテルンに協力をしたのですから」
「協力──? 協力って?」
「いやぁ、まぁしかし、協力と言っても些細なものでして……。ただ王室の防護結界を破ったりなどしたくらいですとも、えぇ。レーヴさんは、わたくしめの力など、本当は、真相を知る上では借りるつもりもなかったのでしょう、ご自身でこのセレファイスの成り立ちを知りたいと思ったのでしょう、しかし防護結界だけはどうにもならなかった、だからわたくしめの力をお貸しすべく、契約を結んだのです」
「契約──つまり、あなたもレーヴに何かを求めた?」
「やはりきみは賢いな。だがね、私は別に何も求めちゃいないよ。ただ、その方が面白くなりそうだと、そう思ったのさ」
そう言ったニャルラトホテプが邪悪である気がしたのは、それがワイルド・ワイアードの顔だったからだろうか。
だが、とにかく、あらゆる時間を俯瞰し、そして目の前の邪神が自ら真相を説明してくれると言う。それにこの邪神は、それを知ることが大事なことだとも言った。
ならば、聞くべきだろう。
死がないはずのセレファイスにあった死体は誰なのか。
なぜシュテルンは、記憶を失い、レーヴ・レヴェリとしてあの裏路地にいたのか。
「聞く気になったかい? じゃあ、話をしよう。ワイルド・ワイアードのところへは、その後案内してあげるよ」
と、ニャルラトホテプは僕の顔と声で言った。




