4-8: 世界は、頭の中にある。
宮殿の中は静まり返っていた。
逃げられる者は逃げ、戦える者は外に出て戦っているからだろう。
王室へと向かう僕とレーヴを妨げるものは何もなかった。
「分かるの? どっちがその王室なのか」
「輝くトラペゾヘドロンの欠片が引き寄せられる感じがする。もともとふたつだったものだから、惹かれ合うのかもしれない」
しかし、輝くトラペゾヘドロンを覗き込んでも、既にワイルドの姿は見えなかった。
それがどこなのかもよく分からない。ひょっとすると、ポケットかどこかにしまい込んでしまったのだろうか。
あるいは、輝くトラペゾヘドロンでさえ視界が繋がらないような場所にいるのだろうか。
不気味なほど静かな宮殿を破片に導かれるように歩いていくと、一際大きな階段があった。直感的に、その先が王室──このセレファイスの創造主がいる空間だと理解した。
「──行こう」
と、言ったのは僕の方だった。
レーヴが少し戸惑ったように見えたのは、かつての自分がその先でどのような目に遭ったかを想像していたからかもしれない。
しかし、レーヴは既に覚悟を決めていた。
「うん」
彼女の返事を受け止めて、僕から階段に一歩、足を踏み入れた。それに続いて彼女も階段を踏んだ。結界の類いや防護呪文の類いはない。僕と合わせるために解かれたタイミングを狙っての襲撃だったのか、あるいはワイルドが何かの魔術によって突破したのかは分からないが、王が危険であることだけは確かだ。
カツン、カツンと、靴が大理石を叩く音がする。
僕ら以外の生き物が滅びたのではないかと思われるような静寂の空間に、僕たちふたりの足音だけが、まるで雪解けのつららから滴る水音のように、一定の間隔で響き渡った。
階段を昇りきった先には、大きな扉が開いていた。
そしてその先に、王座がある。
王座には、誰かが座っていた。
ゆっくりと近づいて、声を掛ける。
「──クラネス王、ご無事ですか」
王座に座っているその人影に、僕は声を掛けた。
これまでにクラネス王を間近で見たことがあるわけでは、もちろんない。しかし、王座に腰を下ろして動かないその人物は、クラネス王以外では有り得なかった。彼がそうなのだと、本能が理解した。恐らく、神に相対したとき、それと直感できるのと同じように。
「今日は客人が多いな。こんなに楽しいことは滅多にない」
僕の言葉に、クラネス王がそう応えた。そして、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。死んでいるのではないか──などと、有り得ないことを思っていたのもあり、王が無事であることに安堵した。
「ご無事で何よりです。あの、ここに人が来ませんでしたか。正装をした男で──」
「来たよ。ワイルド・ワイアードだろう。そしてきみは、ナギ・パスツールだ。そしてそっちのきみは、シュテルン──いや、今はレーヴ・レヴェリ、だね」
「──僕たちのことを知っているんですか?」
「もちろん。私はこのセレファイスの創造主だよ。セレファイスのあらゆるものを、私は創造し、そして知っている。当然、きみたちのことも──少なくとも、何者なのかはね」
セレファイスの創造主は、当然のようにそう言った。
「ボクたちを創造したって──ボクたちは、あなたに作られた存在だということ?」
「世界を創造した後に、そこに生命が生まれたなら、創造主は生命をも生んだことになると思うかい。それとも、生命は自ら生まれたと?」
「それは──」
「すまない、意地の悪いことを言ったね。しかしまぁ、私ときみたちの関係は、そのようなものだよ。けれど、時々、想像した以上のことが現実になることがある。想像したものが、予想外の動きをしたりね。ワイルド・ワイアードは、そういう特異点と言えるかもしれないな──」
「そうだ、ワイルドさんがここに来たはずです。どこに行ったんです?」
僕の質問に、クラネス王は少し考えて、それから言った。
「どこだろうな。もう私には分からない。彼は私の想像を超えたものと繋がってしまったからね。だから、もう私には彼のことが分からないんだ」
「想像を超えたものって──彼のことが分からないって、どういうこと?
レーヴが、困惑したように言う。
クラネス王は、諦観したように応えた。
「言っただろう。私はこのセレファイスの創造主であり、きみたちの創造主だよ。だから、きみたちのことをよく知っている」
「クラネス王、セレファイスとは──この世界とは、何なのです? あなたは、この世界は、一体何なんですか?」
僕の質問に、クラネス王は一瞬の逡巡を見せ、しかしまるで観念したかのように、言った。
「言葉通り、私はこの世界の創造主だ。そしてきみたちは、その世界の登場人物だよ」
その言葉を、上手く咀嚼できなかった。
僕は確かに存在している。
登場人物──まるで小説か演劇の役割のようにそう言われたことが、現実であると受け止めきれなかった。
レーヴも多分同じだったと思う。困惑する僕らに、クラネス王は続けた。
「私は、私の現実に疲れて、自分の居場所を求めてこのセレファイスを創造した──理想の世界を創ろうとしていた。ただそれだけのことだよ。私は、自分の無聊の慰みのために、この世界を創ったんだ。きみたちは、言うなればその世界の登場人物だ」
「まさか、この世界が小説か、御伽噺に過ぎないと、そう言うのですか?」
「そうだ──あるいは、そうだった、と言える。最初は私の頭の中にあっただけの世界が、現実になり始めた。そして、世界そのものとなり、私はその世界の──セレファイスの創造主として、ずっと、自分が生み出した世界の秩序を守ろうとしてきた。──だが、最近は──恋しいんだ」
「恋しい──とは──何の──」
「ロンドンだよ。私が元々いた世界の、都の名だ。あの喧噪ばかりの、広告でがちゃがちゃして、美を理解しない者たちが齷齪と働いているストリート──しかし郊外には自然も残っていて、確かにまだ魔法を信じられたあの世界──港町のインスマウス──あの世界に、帰りたいんだ──帰りたい──」
クラネス王が何を言っているのかはまったく分からなかった。
だが、ひとつ確かなのは、クラネス王がこのセレファイスという都に興味を失っていることだ。
セレファイスは、創造主を失おうとしている。
ふざけるな。
「あなたにとっては!」
突然聞こえたそれは、誰の声か分からないほどの怒声だった。
「あなたにとっては、ここは空想の世界かもしれない! あなたにとっては、僕たちはあなたの退屈を紛らわせる想像の友人かもしれない!」
それは僕の声だった。
「だが! 僕らにとってこのセレファイスは、僕らの生きる世界だ! 僕らは生きている! こうして、確かに自分の意思でだ! 元はあなたがあなたのために生み出した存在だったとしても! 今は、僕は僕のために生きてる!」
そうだ、僕は今、僕のために生きている。
「僕が何であるかは、僕が決める! セレファイスを救う手立てがあるなら、教えろ!」
僕はそうして、何者かになる。
レーヴ・レヴェリの助手だけでなく、自分でなれる何かに。
自分が何者であるか分かっていることは、気分が良いことだから。
「──レーヴ・レヴェリ。きみも、同じかい。望むのかい、何者になるか、自分で選ぶことを」
覇気のないクラネス王の言葉に、レーヴは頷いた。
「もちろん。ボクはもう既に名探偵だけど、でも、もっと探偵として生きたいとも思っているから」
「それなら──すべてを取り戻した後で、何者になるかを決めると良い。誰かに与えられたキャラクターでなく、自分でそれに成ることを決めたまえ」
そう言って、クラネス王は両手を何もない空中に掲げた。
すると光が集まった。クラネス王は、その光の中から、大きな何かを取り出した。
それは窓だった。ガラスがはめ込まれた、窓枠だけの窓だ。
「遠く離れたところを見る、魔法の窓だよ。私にはもう、不要なものだ。きみたちが使うと良い」
「使うって言ったって、どうやって──」
「見たい景色を祈りなさい。それがこの窓に映るから。そうしたら、窓を壊して、飛び込むんだ。窓はすぐに空間を閉じるから、すぐにだよ」
そう言ってから、クラネス王は僕らの顔を見て、そして笑った。
それは、安心したような、役目から解放されたような、ほっとした笑顔だった。
「レーヴ・レヴェリ、以前のきみに何が起こったのかを理解しても、きみがきみで在り続けられることを祈っているよ」
輝くトラペゾヘドロンが、魔法の窓に強く引かれているのが分かった。
魔法の窓の向こうは真っ暗だが、今すぐこれを割れば、きっとワイルドがいる場所に行けると、そう思った。
輝くトラペゾヘドロンを、魔法の窓に叩きつける。
割れた窓が、一瞬だけ、僕らを吸い込むように引き寄せた気がした。
僕らはそれに抵抗せず、身を任せた。
窓に吸い込まれる直前に、クラネス王が静かにこう言ったのが聞こえたと思う。
「きみたちは、想像以上だった」
【魔法の窓】
『ブック・オブ・ワンダー』の中の短編にも出てくる、遠く離れたどこか、まったく別の世界を見ることのできる窓です。自分がこの窓に支払えるすべてが、この窓の値段です。
【クラネス王】
セレファイスの王として君臨している彼は、『未知なるカダスを夢に求めて』の中で、現実を望郷するようになったとされています。一方、『セレファイス』でのクラネスは……。




