3-8: 願いとは、欲しいものの言語化である。
ワイルドさんの言う通り、服自体は乾きつつあったものの、そもそも地下から地上まで水で流されて、その後は路上で倒れていたのだ。当然、服は汚かった。
「適当なもので良ければ、用意しますよ」
そう言ってくれたのは、この屋敷の主であるアーノルドさんだった。
そして用意された服は、普段僕が着ているようなものとは違う立派なものだった。僕が持っていれば一張羅と言えるような服だが、アーノルドさんやここで働く従者にとっては普段着らしい。気に入ったらそのまま着て帰ってくれても良いそうだ。けれど、着るには釦も多いし、動きやすいとも言えない。もらったとしても、やっぱり僕にとっては特別なときの一着にしかならないだろう。
そういうシャツ、ズボン、そしてジャケットに四肢を通して、鏡の前で、同じく用意されたネクタイを結ぶ。このネクタイというものが何のためにあるのかは分からない。他の服は、まぁ防寒とか、収納が多いとか、何となく納得できる。しかしこのネクタイだけは、正装に含まれている意味がわからない。
「元々はスカーフを首元に巻いていたのですが、それを小さくしたものなんですよ」
と、アーノルドさんは、結び方も合わせて教えてくれた。
「慣れないと、息苦しいですね。まるで首を吊ろうとしているみたいだ」
「何を言葉にすべきか選ぶべき社交の場においては、通りが良いよりは都合が良いこともありますよ」
「そういうものですか?」
「冗談です。失礼をいたしました。さぁ、皆様、お待ちかねです」
アーノルドさんに連れられて、僕が寝泊まりしている部屋よりも広いふたつめのゲストルームを出る。アーノルドさんは、この屋敷の主であり、名誉修理を利用する程度には名誉がある人間だ。そんな人が、わざわざ僕のためにこんな準備をしてくれている。いや正確には、僕のためというよりも、他のふたりが意識されているのだろうけれど。
そう考えると、緊張しないわけではない。しかし、状況は決して不利ではないはずだ。
「こちらです」
そう言いながら、アーノルドさんは大きな両開きの扉を開けてくれた。
その先には一層豪華な空間が広がっていた。食事をするための大広間だ。食事が運ばれていないときにも客人の目を楽しませるためのシャンデリアや絵画、使えるのか装飾用なのか分からない鎧などが、空間の広がりを損なわない配置で置かれている。
そうした部屋の中心にはひとつの大きな、三人で使うにはあまりにも大きな円卓がある。
僕以外のふたり──ワイルドさんとスラデンさんが、僕よりも確実に服を着こなして、既に席についていた。
「すみません、ネクタイを結ぶのに手間取りました」
アーノルドさんが何も言わずに部屋を出ていき、部屋の中に三人になると同時に、僕は開口一番にそう言いつつ席に座った。
「いやはや、本当に、このネクタイというのは面倒ですからねぇ。あっしも未だに慣れませんよ。だから普段はしてないんですが、こんなところにワイルドさんから──ナギさんから呼ばれてしまっては、流石に正装をしないといけませんからねぇ」
スラデンさんの口調は、かしこまった見た目と裏腹にいつも通りだった。
胸元から煙草の箱とマッチを取り出し、火を点ける。
ワイルドさんはそれを咎めなかった。どうやらここは禁煙ではないらしい。
スラデンさんは煙草を吸い、肺を煙でいっぱいにしてから、それをすべて吐き出して、そして、冷たく言った。
「──それで、ご用件は?」
確かな迫力があった。
スラデン・スランバーは、確かに王室護衛軍の団長なのだ。
しかし、今この場で僕には圧倒的なアドバンテージがある。
殺そうと思えば全員をこの場で殺せるという、圧倒的なアドバンテージが。
「レーヴを解放して欲しいんです」
「そりゃまたどうして?」
「スラデンさんが調べているのは、例の裏路地の殺人事件の真相、ですよね?」
「あっしが、というよりは、護衛軍が、ですがね」
「何らかの形でレーヴがそれに関わっていることは間違いないでしょう。しかし、彼女は今記憶喪失だ。だから、記憶を失う前の彼女の足取りを追うことで、真相に近づけるはずです」
「なるほど。それで、記憶を失う前の彼女の足取りというのは、どの程度掴めているのです?」
スラデンさんのその質問は僕に向けたものだったが、僕は目線だけでワイルドさんにバトンタッチした。それを受けたワイルドさんが、座り方だけはいつもと変わらず片膝を抱えるようにして、耳を触りながら応えた。
「レーヴ・レヴェリは、輝くトラペゾヘドロンを持って王宮に行きました。その目的は、『セレファイスに死がない理由』を、クラネス王に直接訊くためです。だがそこで何かが起こり、レーヴ・レヴェリは──否、星の智慧派の第五の角であるシュテルンは、記憶と、輝くトラペゾヘドロンを失い、次に目を覚ましたときには裏路地だった──というのが現状の理解です」
ワイルドさんの説明に、スラデンさんが頷いた。
「なるほど。そう誘導したのが、ワイルドさん、あなただったわけだ」
「誘導したとは人聞きの悪い。セレファイスの秘密を知るのは誰かと言われ、やはり創造主が一番よく知っているのではないかと、そう応えただけです」
「本当ですか?」
「本当かとは?」
「本当は、あの女の子は、あなたに秘密を訊きに来たのではないのですか?」
「私のような一介の人間に分かることなど、大したことではありません。セレファイスの秘密など、私が知りたいくらいだ」
「知りたいのですか、セレファイスの秘密を?」
「知りたいですよ。だからこんなことをしている」
しばらく、スラデンさんはワイルドさんから目を離さなかった。
スラデンさんがワイルドさんの何を疑っているのかは分からない。
「そのために、少女を王宮に向かわせた?」
「そんなことはしていません。さっき言いましたでしょう。私はただ、創造主でなければ知り得ないことだと、そう言っただけです」
ワイルドさんも、スラデンさんから目を離さなかった。
ワイルドさんは、スラデンさんの何かを疑っているのだろうか。
「──なるほど、分かりました。総括すると、ナギさん、あなたはレーヴさんを解放するだけでなく、もうひとつ、私に取り次いで欲しいことがあるのでは?」
「話が早くて助かります」
そう、ここが通るかどうかだ。
ここが通らないと、少し面倒なことになる。
「クラネス王に会わせてください。クラネス王から、直接何があったのかを聞くために」
「えぇ、良いですとも」
え?
良いんだ。
「どうしてあなたが驚いた顔をしているのです」
スラデンがそう言ったので、僕は動揺しながら応えた。
「あ、いや、思ったよりもあっさり許可が下りたので」
「いえ、ワイルドさん」
どうやら発せられた疑問は、僕に対してではなくワイルドさんに対してだったようだ。ワイルドさんの方を見ると、確かに珍しく、少し驚いた顔をしている。
「ナギと同じですよ。驚いたからです。何せ、クラネス王は普段、王宮の奥に籠もっていらっしゃる。そこで魔法の窓などから、諸世界や御身がもともといた世界を覗き見ているのだ──とね。ですから、そう簡単には会えないものと思っていました」
「今は非常事態ですからね。しっかりと護衛を付ければ大丈夫──普段の防護結界よりは、あっしらでも防衛力は劣るかもしれませんがね。──ナギさん、そういうわけで少し準備がありますが、手筈を整えますよ。レーヴさんのこともね」
スラデンさんの言葉に、僕は笑顔で頷いた。
「ナギ、お手柄だ」
と、ワイルドさんが言った。
お手柄?
何のことだろう。




