3-6: 刺激ばかりでは疲れるが、刺激がないことにもまた疲れる。
気が付くと、僕はセレファイスの町外れに倒れていた。
全身はすっかり濡れているが、雨が降っているのでそれ自体はおかしなことではない。
どうやってそこまで来たのかは覚えていないが、ひょっとすると魔女の誰かが運んでくれたのかもしれないし、地下を流されてここまで来たのかもしれないし、その両方かもしれない。
ただどうやら、まだ死ななくても良いらしい。
「どうされたのです、傘も差さずに」
そう声を掛けられて、誰かと思って顔を上げた。
声の主は、『放蕩虫』と呼ばれていたあの老人だった。
そうか、ここはシーハンのビリヤード場の近くなのか。
老人は傘を半分だけ僕に差すようにして言った。
「大丈夫ですか……いや、出過ぎた真似を致しましたか。それなら申し訳ない」
「いえ、ありがとうございます。ちょっと色々ありまして」
「よろしければ、一緒に酒場まで参りましょう。今日はこんな雨ですから、客足もございません。店の隅で温めた水を飲むくらい、旦那様も許してくれましょう」
老人のその言葉に甘えて、酒場までひとつの傘で歩いた。
その間、僕からも老人からも、一言もなかった。
老人が何を考えていたのかは分からない。彼は買い物をしていたのか、酒やチーズの類いが入った袋を持っていた。
一方僕は、これからのことを考えていた。
ムングの権能を手に入れた今、どうやってレーヴを救出するか、だ。
状況としては、星の智慧派を襲撃するためにある程度の人員が割かれたはずだから、兵舎の方は軽微が手薄になっているはずだ。だとすれば、混乱に乗じられる今がチャンスということになる。
酒場で躰を温めたら、すぐに出発しよう──と、そう決めた。
・・・
酒場は閑散としていた。
何日か前に仕事で(仕事はできなかったけど)来たときとは打って変わって、客がまったくいない。傘を畳んで僕と老人が中に入ると、カウンターで退屈そうにしていたシーハンが一瞬だけ喜んだ顔をこちらに向け、入ってきたのが僕らだと気付いてすぐにつまらなそうな顔に戻った。
「ただ今戻りました、旦那様」
「見れば分かる」
「こちらに、買ったものを置きます」
「見れば分かるってんだ」
「では、私はこれで、仕事に戻ります」
「待て。見て分かるものだけじゃなく、見て分からないものを説明しろ」
「は、はい?」
「そこのびしょ濡れの小僧だよ。何だってんだ。もう二度と来ないと思ってたぜ」
どうやらシーハンは僕のことを覚えていたらしい。そういう記憶力があることは、やはり酒場の店主という感じがする。
「そこで雨に降られてしまって、傘がないのを、助けていただいたんです」
「ちっ、金にならねぇことを。おい放蕩虫、床が濡れちまっただろうが。ちゃんと拭いておけよ」
老人はそれに諂うように笑って、すぐに床をモップ掛けし始めた。
何と言うか、いたたまれない。
「あの、もし良かったら何か暖かいものをいただけませんか。お代は払いますので……」
「金を払うのは当然だろうが。金にならねぇってのは、お前が大酒飲みじゃないって意味だよ」
そう言いながら、シーハンはお湯を沸かし始めた。それと同時に、棚のあまり使われてなさそうなところから袋を取り出し、そこから黒い豆を小さい鉄の器に移した。
着ているものの水を最低限絞ってから、僕はカウンターに座り、その一連の流れを眺めた。
「……なんです、それ?」
「コーヒーっつぅ飲み物だよ。珍しいだろ」
「お酒ですか?」
「ちげぇよ。たまーに、飲みてぇって奴がいんのよ。煙草と合うっつってな。見た目は冴えねぇおっさんなんだが、払いは良いんで、ほとんどそいつのためだけに置いてあんだよ」
「良いんですか、そんなものを」
「滅多に来ねぇから豆が減らねぇ。邪魔で仕方ねぇんだ」
そう言いながら、シーハンは鉄の器をハンドルが取り付けられた装置の下にセットして、ハンドルを回してガリガリと豆を挽き始めた。それだけで、場の空気や匂いが一気に変わったような気がした。
「良いですね、こういうのも」
「たまには、って話だろ。毎度毎度、こんなに時間を掛けて一杯作っちゃいられねぇ。忙しいからこその充実感ってのもある。だからたまにこうやってゆっくりやるのも良いって、そう思うんじゃねぇか」
「それは、確かにそうかもしれませんね」
「逆もそうだ。普段からぼやっとしてると、刺激が欲しくなる。だから非日常を求めて、演劇だのなんだの、そういうのを見に行くんだろ。俺は興味が湧かねぇが」
粉になった豆を、フィルターに移す。それと同時にお湯が沸いた。シーハンは真鍮のカップの口にフィルターを固定して、そこにお湯を注ぎ入れた。
「ひょっとすると、クラネス王もそうなんじゃねぇか」
「え?」
「クラネス王だよ。セレファイスの創造主だ。知ってんだろ、流石に」
「えぇ、まぁ……」
「このセレファイスは、理想の都だろ。理想ってのは、もうこれ以上がないって意味だ。それに、ここにいる限りは誰も知らないときてる。そうなると、そろそろ王様も退屈してるんじゃないかと思うがね」
「……なるほど」
ふと、もしもクラネス王がこの理想に飽きているとしたら、どうなってしまうのだろうか、と考えた。
例えば、セレファイスに有り得るはずのない死体が見つかったこと──それはひょっとすると、創造主の退屈と関係があったりするのだろうか。
退屈な日々に、そういう事件が起こると、不謹慎にも楽しくなったりするものなのではないか──。
「実際、そういう奴は多い」
と、まるで僕の思考に被せるようにシーハンが言ったので、少し驚いた。
「え?」
「特に他の世界からここに来た奴で、ここに来る前の記憶がある奴は、最初はセレファイスを最高だなんて言う。だが、ここに来る前のことを思い出して、それが懐かしくなるのさ」
「あぁ……。そうなんですか」
「そうさ。帰りたいとまで言うやつもいる。だが帰り方が分からねぇで、ずっと悶々とする。その苦痛を和らげるために、こういうところで酒を飲むわけさ。ここには、昔そいつらがいた場所の酒や飲み物もあるからな」
シーハンがそう言ったと同時に、コーヒーと呼ばれる飲み物は完成したみたいだった。
目の前に、真っ黒で熱そうな液体が置かれる。
匂いは良い。甘い感じはしないし、確かにアルコールの感じもしない。
「このコーヒーってのも、さっき言った変わり者のおっさんが作れって言うから作ってる。言い方を変えりゃあ、この飲み物は外の世界から持ち込まれたものなのさ」
「いただきます」
と言って、僕はコーヒーに口を付けた。
熱い。苦い。
けれど、すっきりするような気がする。
不思議だ。味が良いという感じはしない。
でも、これは良いものだ、とそう思った。
だから多分、こう言っても良いのだろう。
「おいしいです」
「おいしいか? 苦いし不味いだろ。でもここにある熱い飲み物なんてそれしかねぇんだ、諦めな」
「いえ、おいしいです。熱いから、ちょっとずつしか飲めませんけど」
「だから一緒に煙草を吸うのが良いんだとよ。お前は吸わないのか? えーっと」
「あ、そう言えば名乗っていませんでした。ナギです。ナギ・パスツール」
「そうかい。ナギは煙草は吸わないのか?」
「えぇ、僕は。知り合いにパイプを持っている奴がいますけど、そいつも吸わないですし」
「なんだそりゃ? パイプ持ってるのに吸わないなんて変な奴だな」
「探偵らしく見えるから持ってるだけ、って言ってました」
「探偵──ってのは、何だ?」
「え? あの、事件とかを解決する探偵、ですよ」
「そんなのがセレファイスにいるのか。まぁ、外から来た人間の中には、妙な仕事の奴も結構いるが」
そうか、探偵という言葉を知っていること自体が、セレファイスでは珍しいのか。
考えてみると、それはそうだ。理想の都、セレファイスではそもそも事件が起こらない。だから、それを捜査する人間が不要なのだ。今回だって、首なし死体が見つからなければ、王室護衛軍が表だって捜査することはなかっただろう。
探偵という職業が、今、このセレファイスに存在していること自体が、不思議なのだ。
僕だって、本を読んでいなければ探偵という仕事について知ることはなかっただろう。
「でもまぁ、今じゃ自由に煙草を吸えるところも少なくなっちまったからな。そいつが喫煙者じゃなくて良かったな。仕事のたびにパイプに火を点けてちゃあ、今じゃあちこち禁煙だから、白い目で見られちまうところだったろうよ」
禁煙?
パイプ?
初めてレーヴがあの人に会ったとき、どうしてあの人は──。
「……なるほど、そうか」
思わず独り言が出た。
そして、もし僕の仮説が正しいとすれば、そしてすべてが繋がっているとすれば、きっとワイルドさんの居場所も自ずと──
「シーハンさん、実は僕、ちょっと人を探しているんですけど」
「何だ?」
「アーノルドという人の家を、ご存知じゃありませんか?」




