2-8: 見ることは信じることだ。ただし、あらゆるものが見えるとは限らない。
目の前の状況に戸惑っているのか、スラデンは身動きひとつせず固まったままだった。
恐れている様子はない。
不自然なほど、落ち着いている。
それはそうだ。突然こんな危険だらけの場所に、それもセレファイスという場所で迷い込んだなら、思考も止まって当然である。
確か、正常性バイアスという名前があったような気がする。
自分の身が危険に曝されたとき、パニックにならないよう、それを『問題ない』と認識してしまうことがあるのだ。
「いやはや、これはどうも、まずいところに来ちゃったかな──」
「運が悪かったねオジサン。顔を見られちゃ、生かしておく理由はないかな」
一瞬の隙の間に、自分の意思では動けなくなっていた兵士がターラに向けて槍を投げた。
それは攻撃ではなく、武器のバトンタッチだった。
それを受け取った魔女は、そのまま一直線に、スラデンへと突進した。
「スラデンさん! 避けて!」
僕の必死の叫びに、
「避ける?」
スラデンは、まだ動じなかった。
「なぜ? あっしの方が強いのに」
その瞬間、何が起こったのか、僕には分からなかった。
気付くと、ターラが持っていた槍の柄が真っ二つに切られていた。
その事実に気付いたと同時に、頭上にその矛先が舞っていることにも気付く。
スラデンが切った?
いや、スラデンは何も持っていない。
じゃあ、アクロニオンが?
違う、あまりに距離がありすぎる。
僕が混乱しているその最中、ターラの躰から血が吹き出ていた。
ターラが切られたのだ。
誰が切った?
やはり、切ったのはスラデン以外には有り得なかった。
だが、一体何で──? どうやって?
「珍しいでしょう。アビキスでできた剣ですよ」
崩れるように膝をつくターラから吹き出る血飛沫が、その輪郭を現した。
スラデンが、何かを持っている。
透明な、剣のようなものを。
それが、血飛沫を受けて、ようやく剣らしい形を可視化していた。
「は? 意味わかんね──」
「殺しはしませんよ。あっしにそれはできませんし、ここはセレファイスですから」
そう言って、スラデンは、その見えない剣を、膝をついたターラの背中ごと地面に突き刺した。
それと同時に、空中を舞っていた槍の矛先が地面に刺さるように落ちた。
何事もなかったかのように、スラデンがこちらに向かって歩いてくる。
呆気にとられて、何も反応することができない。
何なんだこの人は?
一般人じゃなかったのか?
いやもう、それは確かだ。
だが、一体この人は──。
「ご足労をお掛けしました、団長」
と、アクロニオンが言った。
「団長?」
状況を飲み込めていない僕がその言葉を繰り返す。
アクロニオンは、こう言った。
「スラデン・スランバー団長。王室護衛軍のトップのお方だ。あらゆる死線を越え、どのような戦場からも必ず戻ってくる、護衛軍で最も強い戦士である」
「えっ、アクロニオンさんが団長だったんじゃないんですか?」
「吾輩が一度でもそう言ったか? 吾輩をふざけて団長と呼ぶのは、軽薄なるアラースだけである」
僕はその事実に心底驚いていたけれど、隣のレーヴはそこまで驚いていないように見えた。
「レーヴ、分かってたのか?」
「うん、まぁ、アクロニオンが団長じゃないってことと、団長って呼ばれている別の人がもうすぐ到着するってことはね」
「どうして?」
「アクロニオンが言った通りだよ。団長ってアクロニオンを呼んでいたのはアラースだけだし、『団長が何とかするまでは堪える』ってアラースが言ったとき、アクロニオンはそれを訂正しなかったでしょ。だから、ここにいない本当に『団長』って呼ばれている誰かがもうすぐ来て、その人が来ればどうにかなるんだと思ったのさ」
「まさか、ターラと会話を引き延ばしていたのも、そのための時間稼ぎだったってことか?」
「ま、そういうこと。でも、おじさんが団長だったとは、思わなかったな」
「いやはや、貫禄がなくてお恥ずかしい。実際、アクロニオンの方がよほど団長に相応しい迫力があるからねぇ」
スラデンがそう言って、アクロニオンは恐縮そうに首を振った。
「それで、戦況はどんな感じなの?」
「奥の方で、アラースが死体人形と戦っています──が、魔術師を気絶せしめた今、そちらも決着が着いたかと」
「なるほどねぇ。まぁ、一応見に行こうか」
そう言って、スラデンは僕らを通り過ぎて悠々と裏路地へと足を進めた──
──が、
「でもその前に、忘れちゃいけないことがある」
スラデンがそう言った瞬間、僕は背後から硬い何かで殴られた。
あまりに無防備だった一撃に、意識が遠のいていく。
何で殴られた?
誰に?
誰も、硬いものなんて持っていなかったじゃないか──。
「いやはや、すみません、どうも。でも、穏便に進めたいので、念のため」
薄れゆく意識の最後に、自分の意思でどうにもならない瞼の重さの先に、スラデンが何かを持っているように見えた。
見えただけだ。何も持っているものは見えない。
「鞘かぁ……油断したね」
レーヴがそう言ったと同時に、僕は、そして多分レーヴも、意識を失った。




