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EP 9

ポポロシガーの香りと不意打ちのキス

競竜場からの帰り道、ルーベンス様に手を繋がれたまま屋敷に戻った私は、出迎えたメイドのセリアに目を丸くして驚かれた。

無理もない。冷血無比な旦那様が、政略妻である私の手をしっかりと握り、その上、氷の瞳をトロトロに溶かして優しく微笑みかけていたのだから。

その夜。

私はふかふかのベッドの中で、何度も寝返りを打っていた。

(『俺はもう、手放す気なんて一切ないんだがな』……っ!)

ルーベンス様のあの低く甘い声が、耳の奥にこびりついて離れない。

繋いだ手の熱がまだ残っているようで、顔がカァッと熱くなる。とてもじゃないけれど、このままでは眠れそうにない。

「……少し、温かいものでも飲もう」

私はガウンを羽織り、そっと部屋を抜け出して厨房へと向かった。

深夜の厨房は、私とルーベンス様にとって『秘密の夜食タイム』を過ごす特別な場所だ。

お湯を沸かし、心を落ち着かせる効果がある『陽薬草サン・ハーブ』の茶葉をポットに入れる。

コポコポとお湯を注いでいると、ふと、厨房の奥にあるテラスのガラス戸が開いていることに気がついた。

そこから、夜風に乗って、ひどく芳醇で甘く、そして少しだけビターな香りが漂ってくる。

「……この香り、タバコ?」

誘われるようにテラスに出ると、月明かりの下に、一人の背の高い人影があった。

「……ルーベンス様」

彼は手すりに寄りかかり、夜空を見上げながら、指に挟んだ太い葉巻をくゆらせていた。

シャツの胸元を大きく開け、前髪をラフに流したその姿は、昼間の隙のない魔導師の顔とも、夜食をかき込む親父モードとも違う。

大人の男の、危険でどうしようもない色気が溢れ出していて、私は思わず息を呑んだ。

「アリアか。……起こしてしまったかな」

私の足音に気づいたルーベンス様は、ふっと優しく微笑み、持っていた葉巻を灰皿でもみ消した。

「いえ、眠れなくて、お茶を淹れようかと……。あの、葉巻、吸ってらしたんですね」

「あぁ。ポポロ村という辺境の農村で作られている『ポポロシガー』という特産品でね。最高級品だが、魔王ババアの浪費のせいでうちの城では経費で落ちないから、自腹でこっそり買っている俺のささやかな嗜好品だ。……タバコの匂いは嫌いだったか?」

「いいえ。なんだか、甘くていい匂いですね」

私が素直に答えると、ルーベンス様は「そうか」と短く応え、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。

ドキリ、と心臓が跳ねる。

彼が近づくにつれて、ポポロシガーの芳醇な香りと、ルーベンス様自身の持つ冷涼な魔力の残り香が混ざり合い、頭がクラクラするほど魅惑的な匂いが私を包み込んだ。

「俺も、眠れなくてね」

ルーベンス様は私の目の前で立ち止まると、スッと長い指を伸ばし、私の頬にかかった髪を耳にかけた。

ビクッと肩を震わせた私を、彼は愛おしそうに見つめる。

「今日の昼間、君に言った言葉を思い出していたんだ。……『覚悟しておけ』と、偉そうに言った言葉をね」

「る、ルーベンス様……」

「アリア。俺の今までの人生は、ただ国のために執務をこなし、しがらみに対処し、休日の競馬やジャンク飯でストレスをごまかすだけの、ひどく乾いたものだった」

ルーベンス様の大きな手が、私の頬をそっと包み込む。

少しひんやりとした彼の手のひらが心地よくて、私は逃げるどころか、すり寄るように目を細めてしまった。

「でも、君が来てから……君の作ってくれる温かい飯を食い、君の笑顔を見るようになってから、俺の世界は一変した。……君がいない生活など、もう考えられない」

親指で、そっと私の下唇をなぞられる。

甘い麻痺が、触れられた場所から全身に広がっていくようだった。

「一年後の慰謝料も、自由も、君にはやらない。契約書も、明日破り捨てる」

「っ……」

「俺の本当の妻になってくれ。……一生、俺のそばで、俺のためだけに笑って、美味い飯を作ってほしい」

それは、紛れもない、魂からのプロポーズだった。

ルナミス帝国で「無能」と捨てられた私を、こんなにも完璧で、不器用で、誰よりも優しい人が、全身全霊で求めてくれている。

嬉しくて、胸がいっぱいで。

ポロリと、私の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「はい……っ。私なんかでよければ、一生、ルーベンス様のそばに……っ」

泣き笑いの顔で頷いた瞬間。

ルーベンス様が、私の腰をグッと強く引き寄せた。

「アリア」

熱っぽい吐息とともに名前を呼ばれ、顎をすくい上げられる。

ポポロシガーの甘い香りが限界まで近づき――チュッ、と。

不意打ちのように、私の唇に、ルーベンス様の唇が重なった。

「んっ……」

最初は、触れるだけの優しいキス。

けれど、私が目を閉じてそれを受け入れると、ルーベンス様は小さく唸り声を上げ、私を逃がさないように抱きすくめ、今度はもっと深く、甘く、溶かすようなキスを降らせてきた。

頭の中が真っ白になる。

息継ぎの隙間に漏れる彼の甘い吐息と、私を求める強い腕の力に、ただただ身を委ねるしかなかった。

「……はぁっ、……っ」

ようやく唇が離れた時、私は立っていられないほど足の力が抜け、ルーベンス様の胸にすがりついて荒い息を繰り返していた。

「……すまない。少し、余裕がなかった。嫌だったか?」

ルーベンス様が、少しだけ意地悪に目を細めて囁く。

その顔は、私が今まで見たどの彼よりも、色気を含んだ『大人のオス』の顔をしていた。

「い、嫌なわけ……ないです……っ。でも、心臓が、びっくりして……」

私が真っ赤になって顔を伏せると、彼は愛おしそうに低く笑い、私の背中を優しく撫でてくれた。

「ゆっくりでいい。これから一生かけて、君を俺の色に染めていくから」

テラスから差し込む月明かりの下。

私たちは、誰にも邪魔されない静寂の中で、再び甘く長い口づけを交わした。

『冷徹な魔族の貴公子』と『無能なハズレ令嬢』の契約結婚は、この夜を境に、ただひたすらにお互いを愛し、溺愛し合う【本物の夫婦】へと変わったのだった。

――しかし。

私たちがようやく手に入れたこの幸せな時間を、遠く離れたルナミス帝国の影が、静かに、そして強引に引き裂こうと迫っていることに、この時の私たちはまだ気づいていなかった。

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