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EP 10

ルナミス帝国からの使者

テラスでの甘い口づけと、本当のプロポーズから一夜明けた朝。

「おはよう、アリア」

ダイニングの席に着いた私を待っていたのは、淹れたての紅茶と、ルーベンス様のとろけるような極甘の微笑みだった。

「お、おはようございます……っ」

私は顔から火が出そうになりながら、ぎこちなく挨拶を返した。

昨夜の出来事が夢ではなかった証拠に、ルーベンス様の手元にあったはずの『一年間の結婚契約書』は、すでに彼の闇魔法で綺麗に消し炭にされていた。

「よく眠れたか? 俺は君の淹れてくれた陽薬草茶と、君の……その、温もりのおかげで、ここ数年で一番深い眠りにつけた」

「〜〜〜っ!」

涼しい顔でとんでもないことを言うルーベンス様に、私は両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏した。メイドのセリアが、背後で「まぁ!」と嬉しそうに口元を覆っているのが気配でわかる。

(恥ずかしい……でも、幸せ……っ)

ルナミス帝国で「無能」と虐げられていた私が、こんなに愛されて、大切にされる日が来るなんて。

幸せな朝食の時間を終え、ルーベンス様が「さて、今日も厄介な執務を片付けてくるか。夜食を楽しみにしているよ」と私の額に軽くキスをして立ち上がった、まさにその時だった。

「ルーベンス様! 大至急、ご報告申し上げます!」

バタンッ! と扉が開き、血相を変えた魔皇国の近衛兵が飛び込んできた。

「ルナミス帝国から、急な『特使』が到着しました。現在、城の応接室でお待ちです。名目は……アリア奥様の、帝国への『即時返還』要求とのことです!」

「……なんだと?」

その報告を聞いた瞬間、ルーベンス様から発せられていた甘く温かい空気が一変した。

室内の温度が急激に下がり、肌を刺すような絶対零度の殺気が部屋を満たす。

「返還だと? 我が国とルナミスは不可侵条約を結び、アリアはその正当な対価(花嫁)として俺が娶った。それを今更返せだと? 何のふざけた冗談だ」

「そ、それが……ルナミス帝国の内務官オルウェル様の直筆の親書を持参しておりまして。……『アリア・クロイツの所有するスキルが、帝国軍の古代魔導兵器起動に不可欠であると判明したため、国家権限において召還する』と」

(えっ……私の、【翻訳】スキルが……?)

私はサァッと血の気が引くのを感じた。

ルナミス帝国は、魔法と闘気を融合させた『魔闘術』を軍事力の要とし、実力主義と効率を極限まで追求する国だ。

私の【翻訳】は、誰にも読めない文字が読めるだけで、攻撃力も防御力もない「ハズレ」だと言われていた。

けれど、アバロン魔皇国で古代魔導書を解読したように……もし、ルナミス帝国が発掘した強力な『古代兵器』の起動パスワードや仕様書が、古代語で書かれていたとしたら?

「……あの冷酷な監視魔オルウェルめ。俺たちがアリアのスキルの真価に気づいたのと同じタイミングで、奴らも気づきやがったか」

ルーベンス様が、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。

「ルナミスからの使者は誰だ。内務省の役人か?」

「いえ、それが……クロイツ伯爵家の長男、ギオン・クロイツ殿です。ご自身の妹君を迎えに来たと……」

「お義兄様が……っ!?」

私はガタッと椅子から立ち上がり、震える手で胸元を強く握りしめた。

ギオン義兄様。私を「名門の泥」「役立たずのゴミ」と最も蔑み、屋根裏部屋に追いやった張本人。優秀な魔闘剣士である彼は、力こそがすべてだと信じて疑わない、ルナミス帝国の傲慢さを煮詰めたような人だった。

「アリア、震えているな」

ルーベンス様が、すっと私のそばに立ち、私の震える肩を力強く抱き寄せた。

「行かなくていい。俺が追い返してこよう」

「で、でも……お義兄様は、帝国の正式な使者として来ています。私が会わなければ、ルーベンス様やアバロン魔皇国が、条約違反だと帝国から責められる口実にされてしまうかもしれません……っ」

「ルナミスの魔導戦車など、俺の闇魔法でスクラップにしてやる。君が怯える必要はどこにもない」

「お願いします、ルーベンス様。私も……行きます」

私は、ギュッと拳を握りしめてルーベンス様を見上げた。

怖い。お義兄様の顔を見るだけで、暗くて冷たい屋根裏部屋と、あの酸っぱい『ゲロオムレツ』の味がフラッシュバックしそうになる。

けれど、もう逃げたくなかった。ルーベンス様が私を「最高の妻だ」と認めてくれたのだから、彼に恥じない自分でいたかった。

「……分かった。だが、俺から絶対に離れるな。一歩でもあいつらが君に近づこうとしたら、使者だろうとなんだろうと、その首を落とす」

ルーベンス様は私の決意を汲み取り、深く頷いてくれた。

応接室の重厚な扉が開かれると、そこには傲慢な態度でソファにふんぞり返る、見慣れた金髪の青年の姿があった。

「遅いぞ、魔族の――」

不機嫌そうに声を荒げたギオン義兄様は、ルーベンス様の隣に立つ私の姿を認めると、フンと鼻で笑った。

「なんだ、アリア。お前、まだ生きていたのか。てっきり魔族の餌にでもなって、無様な人生を終えたと思っていたが」

「……お義兄様」

久々に聞く、私を地の底まで見下す冷たい声。

ビクッと体がこわばった私を、ルーベンス様が庇うように半歩前に出た。

「俺の妻に、気安く口を利くな。ルナミス帝国の犬が」

ルーベンス様の放つ凄まじい威圧感に、義兄様とその後ろに控えていた帝国の護衛兵たちが、一瞬息を呑んで後ずさった。

しかし、義兄様はすぐに態勢を立て直し、ニヤァと嫌な笑みを浮かべた。

「魔皇国の内政統括殿。誤解しないでいただきたい。我々は皇帝マルクス陛下、および内務官オルウェル様の正式な命令書を持ってきている。……アリア、お前を『回収』しにな」

義兄様は、私に向かって顎をしゃくった。

「喜べ、アリア。お前のそのくだらない【翻訳】スキルが、帝国の新兵器開発に必要になったそうだ。ゴミはゴミなりに、帝国のために命をすり減らして働く権利を与えてやる。さっさと荷物をまとめろ」

私を人間ではなく、便利な「道具」としてしか見ていない瞳。

かつての私なら、その眼差しに射すくめられ、涙をこぼして「はい」と従うしかなかっただろう。

けれど、今の私には――私の肩を力強く抱き、氷のような怒気を放ってくれている、世界で一番優しくて頼もしい旦那様がいる。

「……お断りします」

私は、震える声で、それでもハッキリと告げた。

「私はもう、ルナミス帝国には帰りません。私はアバロン魔皇国で、ルーベンス様の妻として生きていきます……!」

私の反抗に、義兄様は信じられないものを見るように目を丸くし、そして、激しい怒りで顔を真っ赤に染め上げたのだった。

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