EP 8
旦那様の矢印が巨大化していく
それからの私の毎日は、ルナミス帝国にいた頃とは比べ物にならないほど忙しく、そして信じられないほど充実したものになった。
「……『星の瞬きを束ね、三日月の盾を成せ』……。ルーベンス様、この古代魔導書に書かれているのは、防衛結界の強化術式のようです」
「なんと……。歴代の宮廷魔導師たちが十年かけても解読できなかった失われた魔法陣を、たった一時間で……!?」
執務室のデスクで、私が古い羊皮紙をスラスラと読み上げると、ルーベンス様は驚愕に目を見開いた。
私の【翻訳】スキルは、ラスティア様の『推し活グッズ』の解読だけでなく、アバロン魔皇国に眠る古代文献の解読において、凄まじい真価を発揮した。
これまで「ただの模様」や「暗号」だと思われていた古代の叡智が、私の目を通すだけで次々と現代に蘇っていくのだ。
「アリア。君は本当に……俺の女神かもしれない」
「め、女神だなんて、大げさですよっ」
ルーベンス様が、熱を帯びた氷の瞳で私を真っ直ぐに見つめ、大きな手で私の頭をポンポンと撫でる。
最近のルーベンス様は、二人きりの時、やたらと距離が近い。以前のような「契約相手への冷たい壁」は完全に消え去り、私に向ける視線には、隠しきれないほどの深い敬意と……熱烈な好意(矢印)が滲み出ていた。
夜の厨房で胃袋を掴み、昼の執務で仕事の有能なパートナーとなる。
図らずも、私はこの完璧主義で不器用な旦那様の『公私すべて』において、欠かせない存在になってしまっていたらしい。
「とはいえ、少し君を働かせすぎたな。目元に疲れが出ている」
ルーベンス様は私の目尻にそっと指先を触れ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「明日は俺の数少ない非番だ。アリア、もしよければ……息抜きに、帝都の街へ出かけないか?」
「えっ……お出かけ、ですか?」
「あぁ。ずっと城の中に引きこもって、俺や魔王の相手ばかりでは息が詰まるだろう。たまには外の空気を吸おう」
魔族の貴公子様からのお誘い。
それはつまり、デート、ということだろうか。私はドクンと跳ねる心臓を抑えながら、コクコクと勢いよく頷いた。
翌日。
私たちは『認識阻害の魔法』をかけたペンダントを身につけ、お忍びで帝都の街へと繰り出した。
ルーベンス様はいつものカッチリとしたスーツではなく、少し着崩したシャツにロングコートというラフな私服姿だった。……これがまた、すれ違う魔族の女性たちが思わず振り返るほどに、危険な色気を放っている。
(こんな素敵な人が私の旦那様だなんて、ルナミス帝国の家族が知ったら腰を抜かすだろうな……)
そんなことを考えながら、私はルーベンス様の後を小走りでついていった。
高級なブティックやオシャレなカフェが並ぶ大通りを歩くのかと思いきや、彼が向かったのは、帝都の少し外れにある、熱気と喧騒に包まれた巨大な施設だった。
「……ルーベンス様。ここは?」
「俺の、休日のオアシスだ」
ルーベンス様がニヤリと笑って見上げたゲートには、『アバロン・ジオ・リザード大競竜場』という看板が掲げられていた。
そう。土煙を上げて爆走する地竜たちの順位を予想して賭ける、大衆の娯楽施設――競馬場(競竜場)である。
「さぁ、第5レースが始まるぞ! 俺は3番の『マッハ・バイソン』の単勝に金貨を張る。アリアはどうする?」
「え、ええと……じゃあ、私はあのピンク色の鱗の子に……」
最初は戸惑っていた私だったが、レースが始まると、ルーベンス様のあまりの白熱っぷりに思わず笑ってしまった。
「そこだ! 差せ! いけえええっ!!」
普段は冷徹な魔導師が、片手に新聞を握りしめ、目を血走らせて地竜を応援しているのだ。完璧な顔面でやっていることは完全に『おっさん』である。でも、その飾らない姿が、私にはたまらしく愛おしかった。
レースを数戦楽しんだ後、私たちは競竜場の近くにある、煙と油の匂いが染み付いた汚い大衆食堂に入った。
「ここの『焦がしニンニク炒飯』と『獄炎焼き餃子』は絶品なんだ。まぁ、君が夜食に作ってくれる肉椎茸丼には一歩譲るがな」
そう言ってルーベンス様は、山盛りの炒飯と餃子、そしてよく冷えたビール(私は陽薬草茶)を注文した。
二人で向かい合って、油っこいB級グルメを頬張る。
高級レストランでの食事より、ずっとずっと美味しくて、楽しい時間だった。
「ふふっ……ルーベンス様、ほっぺたにご飯粒がついてますよ」
「ん? あぁ、すまない」
私が手を伸ばして取ってあげると、彼は照れくさそうに笑い、ビールを煽った。
「アリア。君といると、本当に調子が狂う。だが……悪くない。いや、最高だ」
熱を帯びた眼差しで見つめられ、私は顔がカァッと熱くなるのを感じて俯いた。
帰りの道。
夕暮れ時の帝都は、買い物客や仕事帰りの魔族たちでごった返していた。
人混みに流されそうになり、私が「あっ」と声を上げた瞬間。
グンッ、と強い力で腕を引かれた。
「危ない」
背中が、ルーベンス様の広く温かい胸の中にすっぽりと収まる。
彼が私を庇うように抱き寄せたのだ。
「おい、そこ。歩くときは前を見ろ」
私にぶつかりそうになった酔っ払いの男に、ルーベンス様が絶対零度の声で告げる。
その声に含まれた圧倒的な闇の魔力と殺気に、酔っ払いは「ヒィッ!」と悲鳴を上げて逃げていった。
「ケガはないか、アリア」
先ほどの冷酷な声とは打って変わって、私を見下ろす瞳と声は、甘く蕩けるように優しい。
「は、はい……ありがとうございます」
「はぐれるといけない。……手を」
ルーベンス様はそう言うと、私の小さな手を、彼の手でギュッと包み込み、そのまま恋人つなぎに指を絡めた。
「あの、ルーベンス様……? 私たち、契約結婚の偽装夫婦なのに、こんな風に手を繋いだら……」
私が戸惑いながら見上げると、彼はフッと困ったように笑い、私の耳元に身を屈めた。
「偽装、か。……俺はもう、手放す気なんて一切ないんだがな」
「え……?」
「君という最高の妻を、一年で手放すような馬鹿な真似はしない。俺の胃袋も、仕事も、休日も……すべて君に握られてしまったんだ。覚悟しておけよ、アリア」
それは、冷徹な魔皇国の貴公子からの、甘く重い『執着』の宣言だった。
私の心臓は、もはや爆発しそうなほどの早鐘を打っていた。
契約結婚から始まった私たちの関係は、確実に、そして劇的に、本当の夫婦へと形を変えようとしていたのだった。




