EP 3
魔皇国のカオスな日常
アバロン魔皇国での生活は、私にとって文字通り天国だった。
朝目覚めると、シーツは雲のようにふかふかで、石化クラッカーのように硬くない。
朝食には、本物のフワフワな焼き立てパンと、シープピッグのカリカリベーコン、それに新鮮なトライバードの卵を使ったスクランブルエッグが出た。
酸っぱい泥水のような青汁ではなく、香りの良い紅茶まで淹れてもらえる。
「美味しすぎる……。本物の卵って、こんなに味がするんだ……っ」
あまりの感動に、私は毎朝ポロポロと涙を流しながら朝食を平らげ、メイドのセリアを「奥様、よほどルナミス帝国でひどい扱いを……っ」と泣かせてしまっていた。
契約結婚とはいえ、ルーベンス様は約束通り私の生活を完全に保障してくれた。
だが、彼自身はというと……。
「……旦那様、今日も朝から執務室に籠もりきりなのね」
廊下の奥にある重厚な扉を見つめ、私は小さく息をついた。
私がこの屋敷に来てから数日。ルーベンス様は食事もそこそこに、ずっとあの部屋で書類と格闘している。目の下にはうっすらと隈ができており、メイドたちが運んでいくのは真っ黒な『アビス・ブレンド・コーヒー』ばかりだ。
「無干渉の契約だから、私が口出しすることじゃないけれど……」
あんなに冷徹で完璧に見える人なのに、なんだか少し心配になってしまう。
私がそっと執務室に近づいた、その時だった。
「ルーベンスぅぅ!! どういうことよこれ!!」
バーンッ!! と、屋敷が揺れるほどの勢いで執務室の扉が開け放たれ(正確には、蝶番が吹き飛んで破壊され)、一人の少女が部屋に乱入してきた。
「っ……!?」
私は慌てて柱の陰に身を隠した。
そこにいたのは、燃えるような真紅のドレスに身を包んだ、恐ろしいほど美しく、そして圧倒的な闇の魔力を放つ少女だった。
頭には立派な悪魔の角。背中にはコウモリのような羽。一目見ただけで格が違うとわかる、強大な存在。
(あ、あの方が……アバロン魔皇国のトップ、魔王ラスティア様……!?)
ルナミスの教育では「血の海で哄笑する残虐な大魔王」として描かれていた人物だ。私は恐怖で震え上がった。きっと、恐ろしい戦争の計画や、ルナミス帝国への侵略についてルーベンス様と密談を――
「今月の『朝倉月人・全国ドームツアー応援特別予算』が、半分にカットされてるじゃない!! これじゃあ、新作のSSRホログラムうちわが全種類買えないわよ!!」
「…………はい?」
魔王の口から飛び出したのは、ルナミス帝国のスパイである私でさえ全く予想だにしない、あまりにも平和で俗物的な言葉だった。
執務デスクに座るルーベンス様は、額に青筋を立てながら、手元のペンをボキッとへし折った。
「当たり前でしょう、ラスティア様……っ! あなた、先月も『月人君の誕生日だから』とかいう訳の分からない理由で、国家防衛予算の30パーセントをランダム封入カードの加工費に横領したばかりですよね!? 我がアバロン軍の戦闘糧食(ORP型)に、なぜ人間のアイドルのブロマイドを標準封入しなければならないんですか!」
「だって、戦場で疲れた兵士たちには月人君の笑顔が必要不可欠でしょ!? 現にみんな喜んでトレード大会してるじゃない!」
「喜んでいるのは一部の狂信者化した部隊だけです! ルナミス軍から『魔族は人間の奴隷の写真を愛でている恐ろしい変態だ』と誤解されて、無駄に緊張感が高まっているんですよ!」
冷徹なはずのルーベンス様が、顔を真っ赤にして魔王に説教している。
対する魔王ラスティア様は、「私は永遠の17歳なんだから、推し活くらい自由にさせてよ!」と、床をドンドン踏み鳴らして駄々をこねていた。
「いいですか。今月は防衛結界の維持費に加え、ルナミスとの外交交渉の準備もあるんです。これ以上の予算の私的流用は、内政統括のこの私が絶対に許しま――」
「あーもう! ルーベンスの分からず屋! ケチ! 堅物! 帰ってルチアナ(女神)とヤケ酒するわ!」
ラスティア様はプイッとそっぽを向くと、空間に漆黒のブラックホールのようなものを生み出し、そこに飛び込んで嵐のように去っていった。
残されたのは、吹き飛んだ扉と、散乱した書類。
そして、デスクに突っ伏して深く、深ーく絶望の溜息を吐くルーベンス様の姿だった。
「……胃が痛い。誰か、強い酒をくれ……っ」
柱の陰でその光景を一部始終見ていた私は、ポカンと口を開けたまま固まっていた。
(魔族って……もっとこう、残虐で恐ろしい種族じゃなかったの……?)
少なくとも今目の前で頭を抱えている旦那様は、冷血無比な悪魔などではなく、ただの『ワガママな上司に振り回される、哀れで過労死寸前の中間管理職』にしか見えない。
「……ふふっ」
なんだか急におかしくなって、私は思わず小さく吹き出してしまった。
冷たい契約の旦那様。
でも、彼は私を殺すどころか、美味しいご飯と温かいベッドを与えてくれて、自分はあんな風に胃を痛めながら国のために(?)働いている。
(私にできることなんて何もないけれど……せめて、何か温かいものでも作って差し入れようかな)
ルナミス帝国では「無能」と見下され、誰かのために何かをしたいと思ったことなんて一度もなかった。
けれど不思議と、不器用で完璧主義なこの旦那様の『胃袋』を労ってあげたいと、私は心からそう思ったのだった。




