EP 2
冷徹貴公子との契約結婚
国境を越え、アバロン魔皇国の帝都に到着するまでの数日間、私はずっと生きた心地がしなかった。
ルナミス帝国の無機質な工場地帯とは違い、魔皇国の街並みは色鮮やかな魔法の光に包まれ、どこか幻想的でさえあった。しかし、馬車の窓から外を眺める私の体は、恐怖で小刻みに震え続けていた。
(いよいよ、悪魔みたいな魔族の旦那様と対面するんだわ……。角が生えているのかしら? それとも全身毛むくじゃらで、牙を剥き出しにしているとか……)
そんな私の不安をよそに、黒い魔導馬車は帝都の一等地にそびえ立つ、豪奢な洋館の前に静かに停車した。
「到着いたしました、奥様。旦那様が執務室でお待ちです」
出迎えてくれたのは、予想に反してとても優雅で礼儀正しい、人間のメイドと同じ姿をした魔族の女性だった。
彼女に案内され、重厚な扉の奥――執務室へと足を踏み入れた私は、思わず息を呑んだ。
「……お前が、ルナミス帝国から送られてきた『花嫁』か」
執務デスクに座り、書類の山から顔を上げたその人は、怪物でも悪魔でもなかった。
それどころか、私がこれまでルナミス帝国で見てきたどんな貴族の青年よりも、恐ろしいほどに美しかったのだ。
滑らかな夜の闇を溶かしたような黒髪に、射抜くような切れ長の氷の瞳。
完璧に仕立てられた漆黒のスーツ(どこか私の故郷の『タローマン』の高級服にも似ているが、もっと洗練されている)を隙なく着こなし、全身から冷ややかな知性と、底知れない闇の魔力を漂わせている。
彼こそが、魔皇国の内政と実務を牛耳る冷血無比な貴公子――ルーベンス様だった。
「ア、アリア・クロイツと申します……っ」
恐怖で声が裏返ってしまった私を、ルーベンス様は値踏みするように冷たい視線で見下ろした。
痩せこけて見窄らしいドレスを着た私を見て、彼は微かに眉間に皺を寄せ、そして、大きなため息をついた。
「単刀直入に言おう。俺は、君を愛するつもりはない」
「……えっ?」
残酷な処刑宣告を覚悟して目をギュッと瞑っていた私は、予想外の言葉に思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「ルナミス皇帝マルクスが何を企んで君を送ってきたのかは知らないが、俺は多忙だ。お飾りの妻とのままごとに付き合っている暇はない。……だから、互いに無干渉の『契約結婚』とさせてもらう」
ルーベンス様は、デスクの上から一枚の羊皮紙を滑らせた。
「期間は一年。不可侵条約が安定するまでの間、君にはこの屋敷で『ルーベンスの妻』として大人しくしていてもらう。その代わり、一年が経てば適当な理由をつけて離縁し、十分な慰謝料を払って君を自由にしてやろう」
淡々と、ひたすらに事務的な口調で語るルーベンス様。
彼の言葉を頭の中で反芻し……私は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
(えっ……殺されないの? それどころか、一年後には慰謝料をもらって自由になれる……!?)
ルナミス帝国では「無能」と罵られ、屋根裏部屋で一生あの酸っぱいゲロオムレツをすすって死んでいくのだと思っていた。
それが、たった一年我慢するだけで、お金をもらって自由の身になれるというのだ。
私にとって、それは悪魔の契約どころか、女神ルチアナ様の奇跡のような提案だった。
「あの……一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ。金額に不満があるなら――」
「ご飯は、いただけるのでしょうか……?」
「…………は?」
ルーベンス様は、完璧な無表情を初めて崩し、心底理解できないという顔をした。
「いや、妻なのだから当然三食出すが……」
「本物のお肉や、硬くないパンを食べてもいいんですか……? し、喋らない野菜とか……」
「どんな劣悪な環境にいたんだ、君は。……好きなものを食べるがいい。メイドに命じておく」
「っ……! ありがとうございます! 喜んで契約をお受けいたします、旦那様!」
私がパァッと顔を輝かせ、迷いなく契約書にサインをすると、ルーベンス様は毒気を抜かれたように額を押さえた。
ルナミスの手先として警戒していたのに、ガリガリに痩せ細った小娘が「ご飯が食べられる」と聞いて泣いて喜んでいるのだから、拍子抜けしたのだろう。
「……メイドのセリア、彼女を客室へ案内してやれ。長旅で疲れているだろう」
「かしこまりました、旦那様」
メイドに連れられて退室しようとした私の背中に、ルーベンス様の疲労に満ちた低い声がかけられた。
「アリアと言ったな。この屋敷での生活は保障する。だが、俺の執務の邪魔だけはするなよ。……ただでさえ、頭の痛い問題が山積みなんだ」
チラリと振り返ると、彼は山のような書類(なぜかそこには『朝倉月人 ライブツアー予算決済書』という謎の文字が見えた気がした)を睨みつけながら、濃いブラックコーヒーを胃に流し込んでいた。
(冷たい人だけど、なんだかすごくお疲れみたい……)
怖い人には違いないけれど、少なくとも私に危害を加える気はないらしい。
ふかふかのベッドと、本物の温かいご飯。
私のアバロン魔皇国での生活は、思っていたよりもずっと希望に満ちたスタートを切ったのだった。
――この時の私は、完璧主義で冷徹なルーベンス様が、数日後、私の前でネクタイを緩めて『親父モード』全開でくつろぐようになるなんて、夢にも思っていなかった。




