EP 5
ヒモニート狼の襲来
ポポロ村での穏やかな朝。
コテージのキッチンからは、ジュウウウッ!という暴力的なまでに食欲をそそる音が響いていた。
「よし、お肉の表面がカリッと焼けてきたわね」
私がお昼ご飯に作っているのは、『肉椎茸の極厚ステーキ』だ。
分厚く切った肉椎茸に、細かく刻んだニンニクとバターを乗せ、最後に『醤油草』のエキスをジュワッと回しかける。キノコの旨味とバター醤油の香ばしい匂いが弾け、思わず自分でも喉が鳴ってしまった。
『ツァラトゥストラはこう語った! 腹が減っては哲学はできぬと! さぁ、早く我にその神々の如き供物を!』
足元では、すっかり私のペット(?)として居着いてしまった迷子のトカゲ――もとい賢竜のクロノが、短い尻尾をパタパタと振ってよだれを垂らしている。
「ふふっ、待ってねクロノ。いまお皿に取り分けるから」
「おいトカゲ。それは俺の妻が俺のために作ってくれた昼飯だ。勝手に横取りするな」
テラスでポポロシガーを吸っていたルーベンス様が、呆れたようにため息をつきながらキッチンへ戻ってきた。
昨夜からずっとこんな調子だ。冷血無比な魔皇国の内政統括様は、どうやらこの小さなトカゲ相手に本気で『妻の手料理』の取り合い(ヤキモチ)をしているらしい。
そんな平和でドタバタなやり取りをしていた、その時だった。
ピキッ……ピキピキピキッ!!
突然、キッチンの窓ガラスに霜が張り始めた。
ポポロ村のうららかな陽射しが一瞬にして遮られ、外の空気が信じられないほどの急激な冷え込みを見せる。息を吐くと、真っ白な冷気となって空中に漂った。
「え……? 急に、真冬みたいに……」
「アリア、俺の背後に隠れろ!!」
それまで親父モードで緩みきっていたルーベンス様が、血相を変えて私を庇うように前に出た。
彼の全身から、漆黒の重力魔法と闇の闘気が爆発的に立ち上る。アバロン魔皇国で数々の修羅場を潜り抜けてきた彼の、完全な『戦闘態勢』だった。
バキィッ!! と、コテージの庭の木々が凍りつき、砕け散る。
吹き荒れる猛吹雪の中から姿を現したのは――見上げるほど巨大な、白銀の毛並みを持つ一頭の『狼』だった。
その美しくも恐ろしい狼は、サファイアのような冷たい瞳で私たちを睥睨し、低く、地鳴りのような唸り声を上げた。
「……まさか、こんな辺境の村に『超越者』が現れるとはな」
ルーベンス様が、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。
「る、ルーベンス様……あの大きなワンちゃんは……?」
「ワンちゃんなどという可愛いものじゃない。あれは、かつての世界大戦で星を凍らせかけた、この世界の絶対調停者の一角……『狼王フェンリル』だ!」
「お、狼の神様……っ!?」
ルナミス帝国の歴史書でも読んだことがある、神話の存在。
それがなぜ、こんな辺境のコテージに!?
『グルルルゥゥ……!!』
フェンリルが牙を剥き、恐ろしい咆哮を上げる。
ルーベンス様が私を守るために闇魔法を放とうと構えた、その瞬間。
私の頭の中で、自動的に【翻訳】スキルが作動し、神話の狼の唸り声が、はっきりとした現代語(チャラい若者言葉)に変換されて聞こえてきた。
『――あー、マジでダルい。逃げたトカゲ(クロノ)の匂いがするから追ってきたのに、腹減りすぎて動けねぇ……。ってか、さっきからめっちゃくちゃ美味そうな匂いがするんだけど。そこの魔族、その肉、俺に食わせろ。さもなきゃ凍らすぞ』
「…………え?」
私は、構えていたお玉をコトッと下ろした。
「アリア! 動くな、あいつはただの魔獣じゃない、ブレスを吐かれたら一瞬で――」
「あの、ルーベンス様」
私は、必死に私を庇う旦那様の背中をトントンと叩いた。
「あの神様、ただお腹が空いてるだけみたいです」
「は?」
「『すごくいい匂いがするから、そのお肉を食べさせてくれ』って言ってます」
ルーベンス様がポカンと口を開ける中、私はフライパンに乗った熱々の『肉椎茸ステーキ』を大きなお皿に移し、そっとフェンリルの前へと差し出した。
「お腹が空いているワンちゃんですね。熱いから、気をつけて食べてくださいね」
『アリア!? 危険だ、離れ――』
ルーベンス様の制止も聞かず、巨大な神の狼は、私の差し出した肉椎茸ステーキに鼻先を近づけた。
クンクン、と匂いを嗅いだ瞬間。
サファイアの瞳が、限界まで見開かれた。
『な、なんだこの狂ったような美味そうな匂いは……っ! ニンニクとバター、それにこの焦げた醤油の香り……! 帝都の女の家で食わされてた高級料理なんか目じゃねぇ!!』
ガツガツガツガツッ!!!
狼王フェンリルは、神としての威厳もプライドも完全に投げ捨て、尻尾を千切れるほど振りながら肉椎茸ステーキを瞬殺で平らげた。
『美味ェェェェェェェッ!!! なんだこれ、ヤバい、脳汁ドバドバ出る!!』
「ふふっ、いっぱい食べるんですね。まだお鍋にご飯もあるから、一緒に食べますか?」
私が笑顔でそう言うと、フェンリルの体を包んでいた絶対零度の冷気が、嘘のようにスゥッと消え去った。
そして、ポンッ! という軽い音と共に、巨大な狼の姿が、一人の人間の青年の姿へと変化したのだ。
銀色の髪を無造作に流し、ルナミス帝国で流行っているラフなパーカーを着崩した、信じられないほど顔の良い青年。
彼は口に、ハーブの香りがする細いタバコ(アイスブラスト)を咥えながら、私の前にドサリとあぐらをかいた。
「ねーちゃん、あんた神か? いや、神は俺なんだけど。マジで最高に美味いわ」
青年――フェンリルは、すっかり私に懐ききった犬のように、キラキラした目で私を見上げた。
「俺、今日からこの家の子になるわ。三食昼寝付きで、ねーちゃんの美味い飯を食わせてくれるなら、番犬でもなんでもやってやるよ。なんなら俺の舎弟どもから巻き上げたシノギ(金)も全部入れるからさ」
「えっ? あの、この家の子って……」
突然の『ヒモニート宣言』に私が戸惑っていると。
背後から、かつてないほどドス黒い、そして圧倒的な殺意を秘めた闇魔法が膨れ上がった。
「……おい、そこの駄犬」
振り返ると、ルーベンス様が額に青筋をビキビキと立て、完全に目が据わった状態で立っていた。
「誰が番犬だ。俺の愛する妻の美味い飯は、俺だけのものだ。……神だろうが何だろうが、俺の妻に気安くすり寄るヒモニートは、闇の底に沈めてやる!!」
「あ? なんだよ魔族の兄ちゃん。ヤキモチか? 余裕ねぇなぁ。俺は美味い飯が食いたいだけだっての」
「る、ルーベンス様! ダメです、コテージが吹き飛んじゃいます!」
神話の神と、冷血無比な貴公子(ヤキモチ旦那)による、妻の手料理を巡る大人気ないバトルが、今まさに勃発しようとしていたのだった。




