EP 15
魔皇国で一番幸せな食卓
本物のプロポーズを受け、正式にルーベンス様の妻となってから数ヶ月。
私、アリア・クロイツ改め、アリア・フォン・ルーベンスの毎日は、信じられないほど平和で、甘く、そしてちょっぴりカオスな喜びに満ちていた。
「アリアーッ! ルチアナから、ついに月人君のファンクラブ限定会報誌(最新号)が届いたわ! 早く、早く翻訳してちょうだい!!」
今日の昼下がりも、魔王ラスティア様が城の扉を吹き飛ばす勢いで私の翻訳室に飛び込んできた。
「はいはい、ラスティア様。今読みますから、そんなに慌てないでくださいね」
私は苦笑しながら、地球から密輸されたというツヤツヤの冊子を受け取った。
【翻訳】スキルを発動させ、アイドルのインタビュー記事をすらすらと読み上げていく。
「『最近ハマっているのは、深夜のラーメンかな。ファンの子たちも、たまには息抜きして美味しいもの食べてね。……愛してるよ』……だそうです」
「あああっ! 月人君が私に愛してるって! しかも深夜のラーメン!? 今すぐ魔皇国の全料理長を集めて、地球の『ラーメン』なるものを再現させるわ! 防衛予算から開発費を――」
「ラスティア様」
そこに、呆れ果てたような、しかし以前のような胃痛を抱えた悲壮感のない声が響いた。
扉の枠に寄りかかり、淹れたてのコーヒー片手に微笑んでいるのは、私の最愛の旦那様だ。
「ラーメンの開発は結構ですが、予算はあなたのポケットマネーから出してください。……それと、俺の妻をあまりこき使わないように。彼女の翻訳スキルは、古代防衛魔法の解読にも必要なのですから」
「ちぇっ、相変わらず堅物なんだから。でもアリアのおかげで、最近ルーベンスも怒らなくなったわよね。前はもっと目つきが悪くて、年中胃を押さえてたのに」
「……誰のせいだと思っているんですか」
ルーベンス様が軽く睨むと、ラスティア様は「じゃあ私はラーメン作らせてくるわ!」と嵐のように去っていった。
「ふふっ。ラスティア様、今日も元気ですね」
「君が来てから、あのババ……魔王の無茶振りも、いくらか被害がマシになった。君は本当に、俺だけでなくこのアバロン魔皇国の救世主だよ」
ルーベンス様はそう言って歩み寄り、私の左手――銀色の指輪が光る薬指に、そっと愛おしそうにキスを落とした。
昼間はこうして、私は彼の仕事のパートナーとして、魔皇国のために楽しくスキルを振るっている。
そして、夜。
「よし、お湯の温度は完璧。ピラダイの干物もいい具合に炙れてきたわ」
深夜の厨房。
誰もいない静かな空間に、パチパチと干物が焼ける音と、ジュウウウッという小気味良い音が響く。
今日の夜食のメインは、ルーベンス様からのリクエストである『シープピッグ(羊豚)のバラ肉と肉椎茸の、ガリバタ醤油草炒め』だ。
ニンニクの強烈な香りと、バター、そして醤油草の焦げた匂いが、暴力的なまでに食欲を刺激する。これを、炊きたての米麦草の上に豪快に乗せるのだ。
「……あぁ、この匂い。今日も一日、この匂いを嗅ぐためだけに仕事を頑張ったと言っても過言ではない」
背後から、ひどくリラックスした低く甘い声が聞こえた。
振り返ると、ワイシャツの第一ボタンを開け、ネクタイを外し、袖をまくり上げたルーベンス様が立っていた。
「お疲れ様です、ルーベンス様。ちょうど出来上がったところですよ」
「美味そうだ。……アリア、こっちへ」
ルーベンス様はダイニングの椅子に座ると、自分の膝の上をポンポンと叩いた。
「えっ? あ、あの、ご飯の用意を……」
「いいから」
少し強引に腕を引かれ、私はルーベンス様の膝の上にすっぽりと収まってしまった。
彼の手が私の腰に回り、背中に広い胸の温もりが密着する。耳元に、ポポロシガーの残り香と、彼の甘い吐息が触れた。
「んっ……ルーベンス様、ご飯が冷めちゃいます」
「少しだけだ。……こうして君を抱きしめて、君の匂いを嗅ぐと、その日の疲れがすべて浄化されるんだ」
ルーベンス様は、大きな犬が甘えるように、私の首筋に顔を埋めて深く息を吸い込んだ。
冷血無比な魔皇国の内政統括が、夜の厨房でだけ見せる、私だけの甘えん坊で親父くさい素顔。これがたまらなく愛おしくて、私は彼の腕にそっと自分の手を重ねた。
「ふふ、じゃあ……熱燗、注ぎますね」
私は膝の上に座ったまま、テーブルの上のチロリ(熱燗器)に手を伸ばし、ルーベンス様のお猪口に『イモッカ』を注いだ。
「あぁ。……君も少し飲むか?」
「はい、少しだけ」
私の小さなお猪口にも、ほんの少しだけイモッカが注がれる。
二人でコツンと杯を合わせ、夜の静寂の中で小さく乾杯をした。
くいっと熱燗を煽ったルーベンス様は、「くぁーっ」と親父くさい溜息を吐き出し、そのままガリバタ醤油草炒めの乗ったどんぶりを掻き込んだ。
「美味い……! 肉椎茸の弾力と、豚の脂が、ニンニクの風味で完全に化けている。そこへイモッカを流し込むと……たまらん。俺は今、世界で一番幸せな男だ」
「大げさですよ。ただのB級グルメの炒め物なのに」
「いや、最高級のフルコースだ。君の愛情という、どんな魔法のスパイスにも勝る隠し味が入っているからな」
サラリと甘い台詞を吐きながら、ルーベンス様は私にも一口、スプーンでご飯をあーんしてくれた。
口いっぱいに広がるジャンクな旨味。ルナミス帝国の屋根裏部屋で、冷たくて酸っぱい『ゲロオムレツ』を一人で泣きながらすすっていた日々が、まるで遠い前世の幻のように思えた。
「アリア」
「はい?」
「俺のところに来てくれて、本当にありがとう。……『翻訳』という君の力も、その優しさも、君が作るこのジャンクな飯も。すべてが、俺の人生の宝物だ」
ルーベンス様は箸を置き、改めて私を真っ直ぐに見つめた。
その氷の瞳は、とろけるように甘く、深い愛情で満たされている。
「私もです。私を『無能』じゃないって、必要だと言ってくれたルーベンス様を……ずっと、ずっと愛しています」
私が満面の笑みで答えると、ルーベンス様は耐えきれないというように私の頬に手を添え、優しく、甘く唇を重ねた。
イモッカの強いアルコールと、彼の熱で、頭の中がぽわぽわと心地よく痺れていく。
無干渉の契約から始まった、政略結婚。
まさか、深夜の厨房で作った一杯の『肉椎茸丼』が、冷血な魔族の貴公子の胃袋と心を掴み、こんなにも幸せで甘い毎日を連れてきてくれるなんて、思いもしなかった。
チュッ、と名残惜しそうに唇が離れると、ルーベンス様は艶やかな笑みを浮かべた。
「さて……腹も満たされたことだし。今夜は、君をデザートにしてじっくり味わうとしようか」
「も、もう! ルーベンス様ったら……っ!」
赤面して抗議する私を、彼は心底楽しそうに笑いながら、お姫様抱っこで軽々と抱き上げた。
窓の外では、アバロン魔皇国の美しい星空が輝いている。
私たち夫婦の毎日は、これからもきっと、美味しいご飯と、ちょっぴりのドタバタと、呆れるほどの深い溺愛に包まれながら、ずっとずっと続いていくのだ。




