EP 13
ルナミス帝国の敗北
ルーベンス様の腕の中でどれくらい泣いていただろうか。
気がつけば、私の震えは完全に治まり、代わりに胸の奥をじんわりと温かいものが満たしていた。
「……落ち着いたか、アリア」
「はい……。ルーベンス様、お洋服を涙で濡らしてしまって、ごめんなさい……」
私がそっと顔を上げると、ルーベンス様は私の目元を指先で優しく拭い、フッと微笑んだ。
「構わない。むしろ、君が俺の腕の中で泣いてくれたことが……君が俺を頼ってくれたことが、少し嬉しいくらいだ」
そんな甘い言葉を囁かれ、私はまた顔がカァッと熱くなってしまう。
ルーベンス様は、ルナミス帝国の使者である義兄様を文字通り『一掃』してしまった。今後、外交問題になるのではないかと不安に思う気持ちも少しあったが、彼の揺るぎない態度を見ていると、そんな心配すら取るに足らないことのように思えた。
実際、ルーベンス様のその自信は、完璧な裏付けに基づいたものだった。
その頃、遠く離れたルナミス帝国の帝都・内務省の執務室。
「……失敗したようですね、ギオン殿」
冷酷な監視社会のトップである内務官オルウェルは、感情の読めない冷たい瞳で、泥まみれになり床に這いつくばるギオン・クロイツを見下ろしていた。
「お、オルウェル様! ち、違うんです! あの魔皇国の内政統括が完全にイカれていて、帝国の使者である俺に突然攻撃を仕掛けてきて……っ!」
全身打撲と骨折の痛みに脂汗を流しながら、ギオンは必死に言い訳を並べ立てた。
「あの魔族どもは、皇帝マルクス陛下を愚弄しました! 今すぐ魔導戦車隊を出撃させ、アバロンの帝都を火の海に――!」
「黙りなさい」
オルウェルの静かな、しかし絶対的な命令が下ると、ギオンはヒッと喉を鳴らして口を閉ざした。
オルウェルは眼鏡を中指で押し上げ、冷ややかに告げた。
「狂っているのは、あなたの頭脳と交渉術です。我々が秘密裏に発掘した古代魔導兵器……その起動プロトコルが古代語で書かれていると判明した時、我々はすぐにクロイツ家の『無能』な令嬢のスキルに目をつけました」
オルウェルは、手元の報告書をパラリと捲る。
「あなたがもう少し賢く、妹君に歩み寄り、帝国の利益のために彼女を上手く『利用』するよう甘言を弄していれば、彼女は大人しく帝国に戻ってきたかもしれない。……しかしあなたは、アリア様という『至宝』の価値を最後まで見抜けず、ゴミとして扱い、挙句の果てに魔族の重鎮を激怒させ、交渉を最悪の形で決裂させた」
「そ、それは……っ、あんな無能が、役に立つわけが……」
「無能なのはあなたたちクロイツ家の方です」
オルウェルの言葉が、死刑宣告のように冷たく響いた。
「アバロン魔皇国への不可侵条約違反の口実を与えたこと。そして何より、帝国にとって計り知れない価値を持つ人材をみすみす敵国へ流出させた罪。……クロイツ伯爵家は、本日をもって爵位を剥奪し、取り潰しとします」
「なっ……!? そ、そんな! クロイツ家は代々、優れた魔闘剣士を輩出してきた名門で……!」
「その『名門』のプライドのせいで、ルナミス帝国は莫大な不利益を被ったのです」
オルウェルは冷酷に言い放ち、指を鳴らした。
執務室の影から、屈強な帝国の兵士たちが現れ、ギオンの両腕を乱暴に拘束する。
「や、やめろ! 離せ! 父上が黙っていないぞ!」
「ご安心を。前当主であるお父上にも、すでに同様の処罰を下しています。……クロイツ家の皆様が国に与えた莫大な損害は、労働で返済していただきます。シーラン国の『マグローザ漁船』、あるいは深海の『キングクラブ工船』での強制労働……生きて借金を返し終える頃には、少しはご自身の無能さを自覚できるでしょう」
「い、いやだぁぁぁっ! 蟹工船だけは! 海の地獄だけはぁぁぁっ!!」
ギオンの絶叫が内務省の冷たい廊下に響き渡り、そしてやがて消えていった。
ルナミス帝国が求めた圧倒的な『実力主義』と『効率』。
皮肉なことに、クロイツ家はその絶対的なルールの前で、自らが「不要なゴミ」として切り捨てられ、破滅の道を辿ることになったのだった。
――数日後。アバロン魔皇国、ルーベンスの屋敷。
「……というわけで、ルナミス帝国からの干渉は完全に消滅した。クロイツ家も取り潰しとなり、奴らは二度と君の前に姿を現すことはないだろう」
夜の厨房。
ルーベンス様は、私が淹れた陽薬草茶を口に運びながら、事の顛末を淡々と語ってくれた。
報告を受けた私は、ポットを持つ手を少しだけ止めた。
「……そうですか」
ギオン義兄様やお父様が、シーラン国の過酷な労働施設に送られたこと。
それを聞いて、私の心に浮かんだのは、喜びでも悲しみでもなく、ただ静かな『喪失感』だけだった。
かつてはあんなに怖かった家族の存在が、今ではただの遠い過去の出来事のように感じられた。
「……後悔しているか?」
ルーベンス様が、私の顔を覗き込むようにして尋ねる。
その声には、少しだけ不安の色が混じっていた。
私は顔を上げ、ルーベンス様に向かって、心からの微笑みを浮かべた。
「いいえ、全く。……私にはもう、関係のない人たちですから」
私は、戸棚から一枚の大きなどんぶりを取り出した。
「それよりもルーベンス様、今夜は特別です。ルナミス帝国からの嫌がらせも無くなって、明日のお仕事はお休みですよね?」
「ん? あぁ、そうだが」
「じゃあ、今日は気にせずいっぱい食べられますね! メインは特製の『肉椎茸丼・大盛り』、付け合わせに『ピラダイの干物』、それから『ネギと豚肉の胡麻油炒め』も作っちゃいます! もちろん、お酒はイモッカの熱燗で!」
私が次々とB級グルメのフルコースを発表すると、ルーベンス様の不安そうだった顔が、パァァッと少年のように輝き始めた。
「ほ、本当か……!? そのラインナップは、まさに俺の胃袋が今一番求めている黄金の組み合わせ……!」
ネクタイを緩め、椅子の上であぐらをかき始めるルーベンス様。
完全に『親父モード』へと移行した旦那様の姿を見て、私はクスッと笑いながら魔導コンロに火を入れた。
ジュウウウッ! と豚肉とネギが炒められ、食欲を刺激する胡麻油と醤油草の香りが厨房いっぱいに広がる。
「あー、たまらん。この匂いだけでイモッカが一杯飲めるぞ」
幸せそうに目尻を下げるルーベンス様を見つめながら、私は確信していた。
私の居場所は、ここにある。
私を心から愛してくれて、私の作るご飯を美味しいと食べてくれるこの人の隣こそが、私の『帰る場所』なのだと。




