EP 12
冷徹貴公子の本気
燃え盛る炎と闘気を纏ったギオン義兄様の剣が、私の頭上へと振り下ろされる。
しかし――私は、目を閉じなかった。逃げもしなかった。
なぜなら、私の隣には、この世界で一番強くて優しい人がいるから。
「死ねぇっ、アリアァッ!」
義兄様が勝利を確信したように歪んだ笑みを浮かべた、次の瞬間。
ガキンッ!!
「……なっ!?」
鈍い金属音と共に、義兄様の剣は空中でピタリと停止した。
見えない壁に阻まれたわけではない。義兄様の足元から伸びた『彼自身の影』が、まるで意思を持った漆黒の茨のように変縮し、義兄様の腕と剣をがんじがらめに縛り付けていたのだ。
「な、なんだこれはっ!? 俺の影が……動かないっ、剣が抜けない……!」
「俺の目の前で、俺の妻を害そうとするとは。……ルナミスの猿は、想像力というものが決定的に欠如しているらしいな」
ルーベンス様の声が、応接室に低く、ひんやりと響き渡った。
彼が指先を軽く持ち上げると、ギオン義兄様の体を縛る影の茨がギリギリッと締め付けを強めた。
「ぐあああっ……!? 骨が、腕の骨がミシミシと……っ!」
「隊長! 魔族め、ふざけるな!」
背後に控えていた帝国の護衛兵たちが、一斉に魔導ライフルや魔闘剣を構えてルーベンス様に向かって飛びかかろうとした。
「……五月蝿い。伏せていろ」
ルーベンス様が冷酷な一瞥を向け、軽く手を下に振り下ろす。
ドゴォォォンッ!!
という轟音と共に、護衛兵たちの体が、目に見えない巨大な力で床に叩きつけられた。
「がはっ……!?」
「お、重い……っ! 体が、潰れ……!」
アバロン魔皇国・内政統括ルーベンスの得意魔法。それは『闇』と『重力』の支配だ。
ルナミス帝国の誇る魔闘術など、彼が放つ圧倒的な密度の重力魔法の前では、羽虫の羽ばたき程度の意味も持たなかった。
応接室は完全に闇に飲まれ、呼吸をするのすら困難なほどの魔力が渦巻いている。
その中心で、ルーベンス様はゆっくりと、縛り上げられて空中に吊るし上げられたギオン義兄様の下へと歩み寄った。
「き、貴様……っ! これがどういうことか分かっているのか!? 帝国の使者への攻撃は、マルクス皇帝への宣戦布告だぞ! 貴様ら魔族は、ルナミス帝国の魔導戦車隊によって焦土と化す……っ!」
激痛に顔を歪めながらも、義兄様は必死に帝国の威光を盾にして喚き散らした。
しかし、ルーベンス様はまるで哀れな虫を見るような目で彼を見下ろした。
「宣戦布告? 構わないぞ。ルナミスの鉄屑どもなど、俺と魔王の二人で片付く。……それより、お前はさっきから、俺の愛する妻を『無能』だの『ゴミ』だのと、随分と楽しそうに罵ってくれたな」
ルーベンス様の声は、どこまでも静かで、だからこそ背筋が凍るほど恐ろしかった。
「あの……っ! あいつは名門の恥だ! 攻撃魔法も使えない、ただ文字が読めるだけの欠陥品……!」
「文字が読める『だけ』? ……ふっ、本当に救いようのない馬鹿だな」
ルーベンス様は、心底見下したように鼻で笑った。
「いいか。アリアの【翻訳】スキルは、お前たちのような無能には一生かかっても理解できない古代の英知を読み解く、世界最高の至宝だ。ルナミスの皇帝や内務官が今頃になって慌てて回収に来たのも、その真価にようやく気づいたからだろう?」
「な、なんだと……?」
「だが、それだけじゃない。アリアは、俺のすり減った心を癒やし、どんな高級料理よりも美味い飯で俺の胃袋を満たしてくれる。彼女が微笑むだけで、俺の世界は光で満たされるんだ。……お前たちのような、家族を道具としか見ない底辺のクズどもに、彼女の本当の価値など一生理解できなくていい」
ルーベンス様の手が、義兄様の懐に忍び込まされていたオルウェル内務官の『親書』を抜き取った。
ボワッ、と。
親書は、ルーベンス様の手の中で漆黒の炎に包まれ、一瞬で消し炭となった。
「ひっ……!」
「マルクスとオルウェルに伝えておけ。アリア・クロイツは死んだ。ここにいるのは、アバロン魔皇国・内政統括ルーベンスの妻、アリアだけだ」
ルーベンス様の目が、冷酷に細められる。
「もし今後、アリアの指一本にでも触れようとする者がいれば、相手が皇帝であろうと使者であろうと、俺が自らルナミス帝国の帝都ごと闇の底へ沈めてやる。……二度と、俺たちの前にその汚いツラを見せるな」
「あ、あああ……っ」
圧倒的な力の差と、死の恐怖。
実力主義のルナミス帝国で威張り散らしていた義兄様は、完全に心を折られ、影の茨の中で無様に失禁し、ガチガチと歯を鳴らして震えることしかできなかった。
「消えろ」
ルーベンス様が指を弾く。
バンッ!! という衝撃音と共に、義兄様と護衛兵たちは、まるで見えない巨大なほうきで掃き出されるように、応接室の窓ガラスを突き破り、城の敷地の外へと文字通り『ゴミのように』放り出されていった。
ヒュルリ、と、割れた窓から外の風が吹き込んでくる。
「…………」
数秒前までの圧倒的な闇と重力が、嘘のようにスゥッと消え去った。
静まり返った応接室で、ルーベンス様はゆっくりと私の方へ振り返った。
さっきまでの冷酷無比な『魔導師』の顔から一転して。
彼が私に向けたのは、心配でたまらないといった、ひどく甘く、優しい表情だった。
「アリア。……すまない、少しやりすぎたかもしれない。怖かったか?」
ルーベンス様が歩み寄り、大きな手でそっと私の頬を包み込む。
その手のひらの温かさに、私は大きく首を横に振った。
「いいえ。怖くなんてありません。ルーベンス様が……私のことを、あんな風に言ってくれて、すごく、すごく嬉しかったから……っ」
張り詰めていた糸が切れ、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「無能なんかじゃないって……ルーベンス様の、光だって……っ」
「あぁ。本当のことだ」
ルーベンス様は、泣きじゃくる私を、壊れ物を扱うようにそっと、けれど力強く抱きしめてくれた。
ポポロシガーの仄かな香りと、彼の安心する匂いが私を包み込む。
「君は俺の誇りだ。君の過去の傷も、帝国からの干渉も、すべて俺が消し去ってやる。だから……これからは、もう二度と泣かなくていい。俺の腕の中で、ずっと笑っていてくれ」
私を縛り付けていたルナミス帝国の呪縛は、彼の手によって完全に断ち切られた。
私はルーベンス様の広い胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きながら、何度も何度も彼の背中に腕を回した。
窓の外では、泥だらけになって逃げ帰っていく義兄様たちの無様な姿があったが、今の私には、もう彼らに向ける感情は何一つ残っていなかった。




