第8話 あなたと歩む、新しい明日
夕陽に照らされた王宮の回廊に、静謐な風が吹き抜けていた。
片膝をついたまま、アルフレート殿下は私の右手をその大きな掌で包み込み、宝物のように慈しみながら見上げていた。
青灰色の瞳に宿る熱は、夕暮れの陽光よりも深く、眩い。
「かつての私は、身勝手な男の足元ですり減っていく君を見て、ただ助け出したいと願っていた」
アルフレートの低く、凛とした声が回廊に染み渡っていく。
「だが、それは私の傲慢だった。君は誰かの救いを待つ無力な小鳥などではなかった。理不尽に誇り高く立ち向かい、自らの足で嵐を切り裂いて歩む――息を呑むほどに気高く、美しい人だ」
「アルフレート様……」
「クラリス。君の知性を、君の折れない誇りを、そして不器用なほどに誠実な魂を、私は心から愛している。……誰かの犠牲になるためではなく、君自身の誇りと幸福のために、私の妻になってほしい」
宝石箱から取り出されたサファイアの指輪が、彼の指先によって私の左手の薬指へと滑り込む。
驚くほど私の指にぴったりと馴染むその指輪は、冷たさなど微塵もなく、彼の体温を帯びてじんわりと温かかった。
「君の背負う重荷を、これからは私が半分背負おう。君の知性が拓く未来を、私の生涯をかけて支え合いたい。……君の隣に立つ資格を、私に与えてくれないだろうか」
瞳の奥が、ツンと熱くなった。
視界が急速に滲んでいく。
五年間、私はただ『役に立つ道具』として扱われてきた。
完璧であらねばならず、弱音を吐くことは許されず、どれほど傷ついても「冷たい人形」と切り捨てられてきた。
そんな私が――自分自身の幸せを願っていいのだと。
この最高峰の男性が、私のすべてを肯定し、乞うてくれている。
零れ落ちた涙が、サファイアの青い光の上にポロポロと落ちて弾けた。
生まれて初めて流す、温かく、誇らしい嬉し涙だった。
「……はい」
私は胸に手を当て、溢れ出す感情をそのままに、心からの微笑みを浮かべた。
「謹んでお受けいたします、アルフレート様。――あなたと共に生きる、この場所で」
アルフレートの顔に、言葉を失うほどの歓喜が広がった。
彼は勢いよく立ち上がると、私を抱き上げ、力強くその胸の中へと抱きしめてくれた。
軍服越しに伝わってくる、彼の激しい鼓動。
額に落とされた優しく熱い口づけが、私に新しい世界の夜明けを告げていた。
***
それから、一年が巡り――。
王都から遠く離れた、極寒の地――北方鉱山。
吹き荒れる冷たい吹雪の中、ドカッ、ドカッと鈍いツルハシの音が響いていた。
「はぁ、はぁ……う、腕が……体が動かない……」
泥と煤にまみれ、ぼろ布のような囚人服を纏った男が、雪の上にへたり込んだ。
かつて「麗しの若き侯爵」と呼ばれたジュリアンの面影は、もはや微塵もなかった。
自慢だった金髪は汚れ果ててボサボサに伸び、頬は痩せこけ、贅沢に慣れきっていた指先はあかぎれと血豆で黒く腫れ上がっている。
横領した金貨八千枚を弁済するための、終わりなき強制労働。
一日わずかな黒パンと泥水のようなスープしか与えられず、朝から晩まで硬い岩盤を掘り続ける日々。
「おい、サボるな罪人!」
バシィッ! と看守の革鞭がジュリアンの背中を容赦なく打ち据えた。
「ぎゃあああっ! 痛い、痛い! 助けてくれ!」
「黙って掘れ! 貴様が今日掘らねばならんノルマはまだ半分も終わっていないぞ!」
転がるジュリアンの視線の先、粗末な飯炊き小屋からは、同じく煤まみれの女の悲鳴が聞こえていた。
「きゃあっ! 熱い! 火傷したじゃないの! こんな重い鍋、持てるわけないでしょう!?」
「何を甘ったれたことを抜かすか、モレル! さっさと囚人全員分の粥を煮ろ!できなければ今夜の飯は抜きだ!」
かつて甘えた声で男たちを操り、贅沢を貪ろうとしていたエレナの姿だった。
自慢の肌は荒れ果て、粗末な灰色のエプロンを締め、怒号と暴力に怯えながら重労働に追われている。
二人の間に、かつて囁き合った「真実の愛」の欠片など残っていなかった。
顔を合わせれば「あんたのせいで!」「お前の浅ましさのせいで!」と、互いを呪い、罵り合うだけの地獄。
ジュリアンは冷たい雪の上に額を擦り付け、血を吐くような呻き声を漏らした。
「クラリス……クラリス……」
毎晩、夢に見る。
暖かな暖炉の前で、自分のために帳簿をつけ、優しく微笑んでくれていた彼女の姿を。
あの日、自分が放り投げたものが、どれほど温かく、どれほどかけがえのない楽園だったのかを。
「悪かった……俺が悪かったんだ……クラリス、許してくれ……戻ってきてくれぇぇぇ……っ!」
ジュリアンの慟哭は、凍てつく北風にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
彼らがこの極寒の地から生きて出られる日は、永遠に訪れない。
***
――同じ日の、王都。
抜けるような冬の青空の下、王都大聖堂の鐘が、高らかに鳴り響いていた。
ゴオォン、ゴオォンと、幾重にも重なる祝福の音色。
大聖堂へと続く大通りは、色とりどりの花びらと、熱狂する数万の王都の民衆で埋め尽くされていた。
「クラリス様ー! 王弟妃殿下、万歳!」
「アルフレート殿下、万歳! おめでとうございます!」
地鳴りのような歓声が空を震わせる。
この一年、クラリスは外務卿特命全権補佐として、帝国との間で奇跡的な和平通商条約を締結させ、さらに旧カーディス領の産業を見事に再生させてみせた。
民の生活を守り、国の繁栄を切り拓いた彼女は、今や王国中の民から「奇跡の才女」「愛すべき王国の守護鳥」として熱烈に敬愛されていたのだ。
大聖堂の控え室。
姿見の前に立つ私は、純白のシルクに身を包んでいた。
幾重にも重なる最高級のレースに、胸元で燦然と輝くサファイアの首飾り。
頭上に載せられたティアラは、王家の正統なる後継者のみに許された白金のものだ。
コン、コンと扉が開き、兄ギルバートが入ってきた。
正装を纏った兄は、私を見るなり、息を呑んで目を細めた。
「……息を呑むほどに美しいよ、クラリス」
「兄様」
「あんな愚か者のために、君を泣かせ続けていた五年間の私を殴り飛ばしたい気分だよ。……本当におめでとう、クラリス。我がランベール公爵家の、誇り高き最高の妹だ」
「ありがとうございます、兄様。兄様が信じて背中を押してくださったから、私は今日、ここに立つことができました」
ギルバートと微笑み合っていると、奥の扉が開き、最高礼装の軍服を身に纏ったアルフレートが入ってきた。
凛々しい銀の刺繍が施された漆黒の上着。
その胸元には、私の瞳の色と同じ、夜空色の飾緒が誇らしげに揺れている。
「支度はできたかい、私の美しい花嫁」
「はい、アルフレート様」
アルフレートが差し出した腕に、私は迷いなく自らの手を滑り込ませた。
触れ合う肌の温もり、互いに向け合う視線。
そこには、依存でも支配でもない、互いの魂を対等に認め合った者だけが持つ、絶対的な安らぎがあった。
「さあ、行こう。皆が君を待っている」
「はい!」
大聖堂の重厚な白木の大扉が、左右へと厳かに開け放たれる。
眩いばかりの光が、雪崩のように視界を満たした。
敷き詰められた真紅の絨毯の先、祭壇の前には国王陛下が立ち、両脇には国中の貴族たちが祝福の拍手を送っている。
パイプオルガンの荘厳な響き、頭上に舞い散る白い薔薇の花びら。
あの日、ジュリアンが「エレナのために寄越せ」と喚いた、あの狭い王宮のバルコニー席などではない。
国の中心。民の祝福と光が満ち溢れる、この世界の最も輝かしい場所。
私はアルフレートの手を強く握り締め、一歩、光の中へと踏み出した。
――どうぞお幸せに、私のいないところで。
あの日、私が元婚約者に投げかけた言葉を思い出す。
過去の暗闇にいた愚かな人々は、自らが選んだ愚行の果てに、永久に戻れない地獄へと沈んでいった。
けれど、私は違う。
見切りをつけ、誇りを捨てず、自らの足で歩み続けたからこそ――私は今、誰よりも愛する人の隣に立っている。
「愛しているよ、クラリス。私の生涯のすべてをかけて」
祭壇の前、アルフレートが私のベールを優しく押し上げ、甘やかに囁いた。
青灰色の瞳に映る私は、誰よりも幸せそうに笑っていた。
「私も、心から愛しております。アルフレート様。……あなたと共にある、この場所で」
重なり合う唇に、祝福の鐘の音がどこまでも高く、どこまでも甘く重なっていく。
過去の幕は、とうに降りた。
そして今――愛と誇りに満ちた、私たちの真実の物語が、永遠の幕を開けたのだ。




