第7話 手遅れの懺悔
ジュリアンが伸ばした泥まみれの手が、私のドレスの裾に触れる――その直前。
私は、音もなく半歩、後ろへと身を引いた。
スカッと空を切ったジュリアンの指先が、冷たい法廷の石畳を虚しく引っ掻く。
私のミッドナイトブルーのシルクには、塵一つ触れさせはしなかった。
「クラリス……! なぜ避けるんだ! 頼む、俺の話を聞いてくれ!」
床に這いつくばったまま、ジュリアンは顔を上げた。
かつて社交界で「麗しの若き侯爵」と持て囃されていた面影は、どこにもない。
乱れた金髪は脂汗と埃にまみれ、充血した瞳からは大粒の涙と鼻水がとめどなく溢れ、顎を伝って床を汚している。
「お前がいなきゃ駄目なんだ! 領地の帳簿も、王宮への挨拶も、使用人の管理も……全部お前がやってくれていたと、今になって骨の髄まで分かった! 俺は何も知らなかったんだ! エレナなんてただの過ちだった! あんな女、もう顔も見たくない!」
ジュリアンは法廷の全貴族が見守る前で、恥も外聞もなく床に額を打ち付けた。
ゴン、ゴン、と鈍い音が大法廷に響き渡る。
「やり直そう! 今すぐ結婚しよう! 俺は爵位を失ったが、お前の実家――ランベール公爵家の力があれば、国王陛下に嘆願して侯爵位を取り戻せるはずだ! お前のお兄様に頼んでくれ! 俺たちなら昔みたいに上手くやれる! なあ、クラリス!?」
法廷の傍聴席から、吐き気を催すような侮蔑のどよめきが起こった。
自分が犯した横領で爵位を剥奪されたというのに、ここに至ってもなお「公爵家の力で復権させてもらえばいい」と、他人の力に寄生することしか考えていない。
この男の精神は、最初から最後まで、一歩たりとも自立していなかったのだ。
「お前だって、俺を愛してくれていただろう!?」
ジュリアンは血走った目を剥き出しにして、必死に叫び続ける。
「五年間だぞ!? 五年間も俺のために尽くしてくれた日々は、本気だったはずだ!あの献身が、嘘だったなんて言わせないぞ! 俺を愛していたから、あんなに頑張ってくれたんじゃないのか!?」
すがりつくような、哀願。
「愛されていた」という甘えだけを命綱にして、沈みゆく泥舟から手を伸ばす元婚約者。
私は――その浅ましい姿を、感情の欠片もない氷の瞳で見下ろした。
眉一つ動かさず、ただ静かに、冷徹に通る声で告げる。
「――勘違いなさらないでください」
私の凛とした一言に、ジュリアンの叫びがピタリと止まった。
「わたくしが五年もの間、カーディス侯爵邸に留まり、身を粉にして働いていたのは……若くして家督を背負わされた貴方を案じ、病床でわたくしの手を握って涙を流された、亡き大御所様――先代侯爵閣下への恩義のためです」
「な……親父への……?」
「ええ。そして、領主の放漫経営によって飢えと寒さに怯えていた、罪なき領民たちの生活を守るため。……貴方個人に対する情など、とっくの昔に摩耗し、消え失せておりました」
「う、嘘だ……!」
ジュリアンの顔が、今度こそ絶望に染まっていく。
「嘘だろ、クラリス……! お前、あんなに優しく俺の世話を……!」
「優しく? いいえ、ただ義務を果たしていただけです」
私は冷ややかに首を横に振った。
「貴方はわたくしの差し出す書類に碌に目も通さず、手柄だけを自分のものとして誇り、裏で公金を愛人に貢ぎ続けていた。……それでも先代様への義理立てとして、わたくしは耐えておりました。いつか貴方が己の未熟さを恥じ、領主としての自覚を持ってくださるのではないかと、一縷の望みを抱いて」
記憶が蘇る。
冷たい応接サロン。男爵令嬢を抱き寄せながら、勝ち誇った顔で私を嘲笑った男の姿。
「ですが、貴方は仰いましたね。『お前は完璧すぎて可愛げがない、俺の愛など必要ないだろう』と。そしてあろうことか、我がランベール公爵家の誇りである主賓席を、愛人のために差し出せと命じられた」
「そ、それは……ただ、あいつにせがまれて……!」
「その瞬間、わたくしの中に残っていた最後の義務感すら、綺麗に消滅したのです」
私の声には、怒りすら混じっていなかった。
完全に冷え切った、死者を検死する法官のような絶対的な平坦さ。
それが何よりも雄弁に、ジュリアンという存在がすでに私の心の中から完全に抹消されたことを証明していた。
「貴方が何を求めようと、何を後悔しようと、わたくしには関係のないことです。……貴方の人生は、貴方ご自身が選んだ愚行によって終わったのですから」
「クラリス……頼む、見捨てないでくれぇっ! 俺が悪かった! 何でもする! お前の犬にでもなるからぁっ!」
ジュリアンが再び床を這い、私の足首を掴もうと躙り寄ってきた、その時。
ザッ、と力強い軍靴の音が響き、長身の偉容が私の前に割り込んだ。
「――控えよ、罪人」
アルフレート殿下だった。
彼は私を守るように背後に庇い、腰のサーベルの鞘の先端で、ジュリアンの伸ばした手を容赦なく払い除けた。
「ぎゃっ!?」
床に転がるジュリアンを、アルフレートは虫唾が走るような冷徹な眼差しで見下ろす。
「これ以上、我が国の得難き至宝たる特命全権補佐官を、その汚らわしい手で穢すことは許さん。貴殿のその浅ましい声は、法廷の神聖さを冒涜している」
アルフレートはそう言い放つと、後ろに立つ私へと振り返った。
そして、先ほどまでの氷のような表情を一変させ、この上なく優しく、温かな眼差しで私を見つめ、そっと右手を差し伸べてくれた。
「行こう、クラリス。こんな場所に、君が留まる必要はない」
「……はい、アルフレート殿下」
私は迷うことなく、自らの手を彼の大きな掌へと重ねた。
包み込まれるような確かな温もりが、指先から胸の奥へと広がっていく。
アルフレートは私の手を優しく握り締めると、自らの腕の中へと引き寄せ、肩を抱くようにして寄り添ってくれた。
二人の間に流れる、完璧な信頼と絆。
そこに、他人が入り込む隙間など爪の先ほども存在しなかった。
「あ……あぁ……」
床に転がったジュリアンの口から、掠れた絶望の呻きが漏れた。
国の最高権力者である王弟殿下に慈しまれ、眩いばかりの光の中に立つクラリス。
その隣こそが、本来であれば自分が立つはずだった場所なのだと――自らの手で投げ捨てたものの巨大さを、ジュリアンは今、骨の髄まで思い知らされていた。
私は、アルフレートの腕に寄り添ったまま、最後に一度だけ、足元の元婚約者へと視線を落とした。
そして、あの日と同じ、澄み切った微笑みを浮かべて告げた。
「ジュリアン様。あの日、申し上げたはずです。『どうぞお幸せに、私のいないところで』と」
「クラ、リス……?」
「ここは、わたくしのいる場所です。国の法を司り、民の未来を拓く――わたくしが生きるべき、誇りある場所。……貴方のような罪人が、足を踏み入れてよい場所ではありません」
――私のいないところで、お幸せに。
その言葉の真意を悟ったジュリアンの顔が、恐怖と絶望で歪みきった。
自分は追放されたのだ。
クラリスの世界から。
彼女がもたらす富からも、名誉からも、慈悲からも、永遠に。
「衛兵、連れて行け」
ギルバート公爵の冷酷な号令が下る。
「はっ!」
親衛隊員たちが一斉にジュリアンを取り押さえ、両腕をねじ上げて引きずり起こした。
「嫌だ! 離せ! クラリスぅぅぅっ! 許してくれ! 鉱山なんて行きたくない! 俺を見てくれ! クラリス、クラリスぅぅぅぅぅっ!」
法廷中に響き渡る見苦しい絶叫。
だが、クラリスが二度と振り返ることはなかった。
ドサリと重い扉が閉ざされ、罪人の断末魔のような叫び声は、分厚い樫の木の向こう側へと完全に遮断された。
法廷に残された貴族たちから、割れんばかりの拍手と、クラリスの毅然とした美しさを称える感嘆の声が沸き起こった。
***
閉廷後。
夕暮れの茜色の光が差し込む、王宮の静かな長い回廊。
喧騒を離れ、私とアルフレートは並んで歩いていた。
窓から吹き込む涼やかな風が、火照った肌を優しく撫でていく。
「……ふぅ」
思わず小さく息を漏らすと、隣を歩いていたアルフレートが立ち止まり、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「疲れたか、クラリス」
「いいえ。……ただ、本当にすべてが終わったのだと、胸のつかえが取れたような気がいたします」
私は夕陽に染まる王都の街並みを見つめた。
五年間、重くのしかかっていた義務の鎖が、跡形もなく消え去っていた。
心の中にあるのは、どこまでも澄み渡る青空のような静寂と、自由の喜びだった。
「見事だったよ」
アルフレートの低く柔らかな声が、耳元をくすぐる。
「君の誇り高さ、そして凛とした決別の言葉……胸のすく思いだった。あのような無関心こそが、奴にとって最大の罰となっただろう」
「殿下が、隣にいてくださったからです。……わたくし一人では、あそこまで毅然と振る舞えなかったかもしれません」
「私は何もしていない。君自身の知性と誇りが、あの男を打ち倒したのだ」
アルフレートはそう言うと、ふっと息を呑み、居住まいを正した。
その怜悧な顔立ちに、珍しく緊張の色が走っている。
「……殿下?」
私が首を傾げた、その時だった。
サッ、と衣擦れの音がして、アルフレートが私の目の前で、静かに片膝をついた。
「え……? で、殿下!?」
王弟殿下であり、国の最高権力者である彼が、臣下である私の前に傅くなど、前代未聞のことだった。
驚きのあまり声を失う私を見上げ、アルフレートは軍服の内ポケットから、一つの小箱を取り出した。
夕陽の光を浴びて鈍く輝く、真紅のベルベットの宝石箱。
カチャリ、と彼の手によって開かれたその中には――夕暮れの空よりも深く、星屑のように煌めく、大粒のサファイアの指輪が収められていた。
「クラリス・フォン・ランベール」
アルフレートの青灰色の瞳が、真摯な熱を湛えて私を射抜く。
「私の、生涯をかけた願いを聞いてほしい」
静まり返った回廊に、彼の凛とした声が響き渡った。




