第6話 暴かれた横領
「待っていろクラリス、今すぐお前を迎えに行ってやるからな……!」
埃まみれのサロンを飛び出し、ジュリアンが侯爵邸の重い玄関扉を開け放った、その瞬間だった。
「――カーディス侯爵ジュリアン。貴族院特別司法局だ」
立ちはだかったのは、銀の甲冑に身を包んだ十数名の貴族院親衛隊と、漆黒の法衣を纏った首席司法官だった。
ずらりと並ぶ抜剣された長剣の群れに、ジュリアンは息を呑んで後ずさった。
「な、なんだ貴様らは!? 俺は今から王宮へ行かねばならんのだ、そこをどけ!」
「出頭先なら、すでに用意してある」
首席司法官が無慈悲な手つきで、王家の紋章が刻印された逮捕状を突きつけた。
「王室水害復興補助金の私的流用、および領地公金の横領背任の容疑により、貴殿の身柄を拘束する。……連行しろ」
「な、横領だと……!? 何かの間違いだ! 離せ! 俺は侯爵だぞ!」
ジュリアンがどれほど喚き散らそうと、鍛え上げられた親衛隊員たちは容赦なくその腕をねじ上げ、冷たい鉄の手錠を嵌めた。
そのまま、鉄格子が嵌められた黒塗りの護送馬車へと乱暴に押し込まれる。
車輪が軋みを上げて走り出す中、ジュリアンは狭い車内で必死に呼吸を整えていた。
(そうだ……裁判になればいい。貴族院の法廷に行けば、クラリスがいるはずだ……! あいつが証言台に立てば、『帳簿の計算違いでした』と一言言って庇ってくれるに決まっている! あいつは俺を愛しているんだから、俺を助けてくれるはずだ!)
自らの犯した罪の重さから目を背け、ジュリアンはただひたすらに、ありもしない「元婚約者の慈悲」に縋り付いていた。
***
重厚な大理石の円柱が立ち並ぶ、貴族院の大法廷。
すり鉢状になった傍聴席には、王都中の高位貴族たちが詰めかけ、異様な熱気とざわめきが満ちていた。
「被告人、前へ」
衛兵に背中を押され、ジュリアンは法廷の中央、一段低くなった被告席へと引き据えられた。
顔を上げたジュリアンの視界に、正面の裁判長席に座る人物が飛び込んでくる。
艶やかな銀髪に、怜悧な青の瞳。
ランベール公爵家現当主――ギルバートだ。
さらに、告発人側の長机に目を向けたジュリアンは、大きく息を呑んだ。
凛とした姿勢で腰掛けているのは、濃紺の外務省正装に身を包んだクラリス。
その胸元には、王弟直属の特命全権補佐であることを示す黄金の鷲のバッジが輝いている。
そしてその隣には、軍服姿の王弟アルフレート殿下が、氷のように冷たい眼差しで腕を組んでいた。
「クラリス……! クラリス、そこにいたのか!」
ジュリアンは手錠をジャラジャラと鳴らし、身を乗り出して叫んだ。
「クラリス、助けてくれ! 何かの陰謀なんだ! 俺がお前を愛しているから、それに嫉妬した奴らが俺を嵌めようとしているんだ! お前なら帳簿の誤りを証明できるだろう!?早く俺の無実を訴えてくれ!」
法廷中にジュリアンの見苦しい叫びが木霊する。
傍聴席の貴族たちから、嘲笑と失笑が漏れ聞こえた。
ガアン! とギルバートが木槌を打ち鳴らす。
「静粛に! ……被告人ジュリアン・カーディス。これより、貴族院特別法廷を開廷する。告発人側、起訴状の朗読を」
ギルバートの声を受け、クラリスが静かに席を立った。
彼女は手元の分厚い書類を手に取ると、一度としてジュリアンに視線を向けることなく、澄み渡る凛とした声で読み上げ始めた。
「告発人、外務省特命全権補佐クラリス・フォン・ランベール。被告人ジュリアン・カーディスに対する、業務上横領および背任の証拠を提出いたします」
クラリスが羊皮紙を一枚掲げると、法廷の魔導投影機に、巨大な帳簿の写しが浮かび上がった。
「三年前、王都を襲った集中豪雨により、カーディス侯爵領の水路が決壊した際、国庫より『災害復興補助金』として金貨一万枚が下賜されました。……しかし、そのうち金貨三千枚が、名目上の土木資材費として引き出された直後、王都の高級宝石商『ラザール』および競走馬の購入代金へと流用されています」
法廷が大きくどよめいた。
「さらに過去二年にわたり、領民救済基金から計金貨五千枚が、被告人の私的遊興費、ならびにモレル男爵令嬢エレナへの贈答品購入費として不正に引き出されております。……これらの支出命令書にはすべて、被告人本人の『私印』が押印されており、当主代行であった私の決済印は一切経由されておりません」
「な……な、なにを……!」
ジュリアンは顔面を蒼白にし、冷や汗をだらだらと流した。
「そ、そんなものは言いがかりだ! 領地の金は領主である俺のものだ! 俺がどう使おうと俺の勝手だろうが!」
「国庫補助金は領民の命を救うための公金です」
クラリスは書類から目を離し、淡々と、感情の一切交じらない声で告げた。
「貴方は領民が泥水を啜って復興に汗を流している間、その血税を愛人の首飾りへと変えていたのです。……私は当時、何度も公金の私的流用を止めるよう、警告の覚書を貴方の執務机に提出いたしました。その控えも、すべてここに保管されております」
クラリスが副官に合図すると、数十枚に及ぶ警告文書が法官たちの手元へと配られた。
日付、内容、そしてジュリアンが『小難しい』と書き殴って却下した直筆のサインまで、完璧に残されていた。
「ぐ、うぐ……っ!」
ぐうの音も出ない決定的な証拠の前に、ジュリアンは言葉を失った。
そこへ、アルフレートがゆっくりと立ち上がった。
怜悧な美貌に宿る絶対的な威厳が、法廷の空気を凍りつかせる。
「カーディス侯爵。貴殿の浅ましさは、王室に対する重大な反逆行為に等しい。……クラリス補佐官が身を粉にして領地を支えていた裏で、貴殿はその献身に泥を塗り、民の血を啜っていたのだ。自らの無能を棚に上げ、手柄だけを掠め取っていた寄生虫に、これ以上の弁明の余地はない」
「ひ、殿下……! ち、違う、俺は……俺はただ……!」
ガアン! と再び木槌が振り下ろされた。
ギルバートが冷酷な瞳で、判決文を読み上げる。
「判決を言い渡す。――被告人ジュリアン・カーディス」
法廷が静まり返り、全員の視線がジュリアンへと注がれる。
「主文。被告人を、王室に対する背任横領罪、ならびに貴族義務不履行の罪により、有罪とする。……本日付をもって、カーディス侯爵位の剥奪、および全爵位・領地の王室への没収を命じる」
「――ッ!?」
ジュリアンの呼吸が止まった。
爵位の剥奪。領地の没収。
それは、彼が誇りとしていた『侯爵』という身分の完全な消滅を意味していた。
「さらに、被告人を平民へと降格し、カーディスの家名を名乗ることを永久に禁ずる。横領した金貨八千枚の全額弁済が完了するまで、身柄を北方鉱山へと移送し、強制労働刑に処す。……なお、共犯であるエレナ・モレルについても、横領金受領および窃盗の罪により、同鉱山での労役刑とする」
「鉱山……強制労働……!?」
極寒の北方鉱山。
一度送られれば、二度と生きて王都の土を踏むことはできないと言われる、犯罪貴族たちの墓場。
「う、嘘だ……! 嘘だあああっ! 俺は侯爵だ! 名門カーディス家の当主なんだぞ! こんな判決、認められるかぁっ!」
「閉廷!」
ギルバートの非情な宣告とともに、傍聴席から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
不正を働き、他人の努力を貪り食っていた寄生虫貴族の失脚に、法廷中の貴族たちが快哉を叫んでいる。
「連行しろ」
親衛隊員たちがジュリアンの両脇を抱え上げ、法廷の出口へと引きずっていく。
「離せ! 離してくれ! クラリス! クラリスぅぅぅっ!」
その時、狂乱したジュリアンは火事場の馬鹿力で衛兵の手を振りほどいた。
足をもつれさせながら、なりふり構わず駆け寄った先は――退廷しようとしていたクラリスの足元だった。
ズザザッ、と音を立てて床にスライディングするように倒れ込み、ジュリアンはクラリスの濃紺のスカートの裾を掴もうと両手を伸ばした。
「クラリス! 悪かった! 俺が悪かったあああっ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を歪ませ、かつての傲慢な侯爵は、まるで泥を啜る獣のように喚き散らした。
「エレナなんてどうでもいい! あいつはただの過ちだったんだ! 愛しているのはお前だけだ! お前がいなきゃ俺は生きていけないんだよ! 頼む、助けてくれ、クラリスぅぅぅっ!」
傍聴席の全貴族が息を呑み、そのあまりに見苦しい元婚約者の姿を凝視する。
だが――。
ジュリアンを見下ろすクラリスの瞳には、怒りすら浮かんでいなかった。
ただ、絶対零度の冷徹さと、汚らわしい塵芥を見るかのような完全な拒絶だけを湛えて――。




