第5話 破綻の足音
「どけ! 通せ! 俺はカーディス侯爵ジュリアンだぞ!」
王宮の正門前で、ジュリアンは近衛兵の胸板を狂ったように突き飛ばそうとしていた。
しかし、鍛え抜かれた巨躯の兵士たちは、微動だにせず冷徹な瞳でジュリアンを見下ろすだけだった。
「カーディス卿。建国記念夜会での不祥事を受け、貴殿の王宮への立ち入り許可は無期限で停止されております。お引き取りを」
「立ち入り停止だと!? ふざけるな! 俺はクラリスに会いに来たんだ! ランベール公爵令嬢を呼べ!」
ジュリアンが血走った目を剥き出しにして叫ぶと、詰所から出てきた近衛隊長が、憐憫とも侮蔑ともつかない薄い笑みを浮かべた。
「クラリス補佐官のことか?」
「ほ、補佐官……?」
「クラリス様は現在、王弟殿下直属の外務卿特命全権補佐官として、国家機密に関わる重大な公務の最中におわす。貴殿のような民間の一貴族が、軽々しく面会を要求できるお立場ではない。……それに」
隊長は手元の通信板を指先で弾いた。
「補佐官より、事前に通達が出ている。『カーディス侯爵と名乗る者が訪ねてきても、一切の面会を拒絶し、即刻排除せよ』とな」
「なっ……!?」
「これ以上の騒乱を起こすならば、今度こそ王宮侮辱罪で地下牢へぶち込むことになるぞ。失せろ」
冷たく突きつけられた長槍の切っ先に、ジュリアンは悲鳴を上げて後ずさった。
「補佐官……? あいつが、国の要職に……? 俺の側妻になって、裏で帳簿をつけるはずだった女が……!?」
信じられない思いで王宮を見上げる。
かつて自分が「可愛げのない冷たい女」と見下していたクラリスは、すでに自分の手の届かない、遥か高みへと駆け上がっていたのだ。
恐れと焦燥に突き動かされ、ジュリアンは逃げるように馬車へ飛び乗り、侯爵邸へと引き返した。
***
だが、戻った屋敷でジュリアンを待ち受けていたのは、さらなる地獄だった。
「金を返せ! カーディス侯爵!」
「詐欺師! 貴族の風上にも置けない男め!」
侯爵邸の門前には、怒号を上げる商人や銀行の取り立て人たちが何十人も押し寄せていた。
ジュリアンが裏口からほうほうの体で屋敷に滑り込むと、館の中からは耳障りな物音が響いていた。
ガタガタ、ドサッ、と何かが引きずられる音。
「な、なんだ……!?」
ジュリアンが慌てて二階の主寝室へと駆け上がると、そこには巨大な革張りのトランクに、金目の装飾品や銀の食器を片っ端から詰め込んでいるエレナの姿があった。
「エレナ!? お前、何をしているんだ!」
ジュリアンの叫び声に、エレナはビクッと肩を跳ね上がらせた。
だが、振り返ったその顔には、かつて見せていた甘えたような笑顔など微塵もなかった。
髪を乱し、化粧を崩したエレナの瞳に宿っていたのは、剥き出しの強欲と、底知れぬ侮蔑だった。
「何をしているかって……見れば分かるでしょう! 荷造りよ!」
「に、荷造り……? なぜだ、俺たちの愛の巣を捨てるというのか!?」
「愛ぃ!?」
エレナは鼻でせせら笑い、手に持っていた銀の燭台を乱暴にトランクへ放り込んだ。
「まだそんな寝言を言っているの!? 正気かしら! この屋敷、もうすぐ差し押さえられるんでしょう!? 口座も全部空っぽで、借金だらけの無能男に、これ以上何の用があるっていうのよ!」
「なっ……! お前、俺を愛していると言ったじゃないか! 俺の腕の中で、ずっと一緒にいたいと――」
「それは、あんたが金持ちの侯爵様だったからよ!」
エレナは金切り声を上げ、唾を飛ばしながらジュリアンを罵倒した。
「侯爵夫人になって、贅沢三昧して、クラリスとかいう偉そうな女を見下ろしてやるつもりだったのに! 蓋を開けてみれば、全部あの女の金と手柄だったじゃない! あんた自身には何の価値もない、ただの空っぽの張り子の虎よ!」
「お、俺を侮辱するのか……! 俺はお前のために、クラリスを切り捨ててやったんだぞ!?」
「頼んでないわよ、そんなこと!」
エレナはジュリアンの胸を両手で突き飛ばした。
よろめいて床に倒れ込んだジュリアンを、エレナは汚らわしい虫でも見るような冷酷な目で見下ろす。
「あの女の機嫌を取って、金を引っ張ってこられないなら、あんたなんてただの粗大ゴミよ! さようなら、無能なジュリアン様! この宝石と銀器は、私の青春を無駄にさせられた慰謝料としていただくわ!」
エレナは重いトランクを両手に提げ、部屋から駆け出していった。
「待て! 泥棒! 泥棒だぁっ!」
ジュリアンが叫びながら這い起きて追いかける。
しかし、エレナが裏口の扉を開けた瞬間――。
「――そこまでだ」
待ち構えていたのは、王都の憲兵隊と、屋敷の使用人たちを引き連れた老執事モランだった。
「きゃあああっ!?」
エレナの手からトランクが滑り落ち、床に転がった。留め金が外れ、中から盗み出そうとしていたカーディス家の家宝である銀器や、ツケで購入した未払いの宝石類がジャラジャラと散らばる。
「モレル男爵令嬢。当家の財産を無断で持ち出そうとした窃盗の現行犯、および各商会からの詐欺容疑で身柄を拘束する」
憲兵が無慈悲に鉄の手錠を取り出した。
エレナは青ざめ、必死に手を振って喚き散らした。
「ち、違うわ! これはジュリアン様から貰ったのよ! 私は悪くないわ! 全部あの男がやれって言ったのよ! 離しなさいよ、汚い手で触らないで!」
「黙れ、署でじっくり言い分を聞かせてもらおう」
憲兵に両腕をねじ上げられ、エレナは床に顔を押し付けられながら連行されていった。
かつて「真実の愛」と信じ込んだ女の、あまりに醜く浅ましい末路だった。
***
誰もいなくなった、がらんとしたサロン。
ジュリアンは赤札――差し押さえの予告書がベタベタと貼られた冷たい床に、力なく座り込んでいた。
「なぜだ……なぜ、こんなことに……」
愛した女には罵倒され、金品を盗まれかけた。
屋敷の使用人たちも、給与の未払いに絶望して一人、また一人と荷物をまとめて逃げ出していった。
最後に残った老執事モランすら、ジュリアンの前に立ち、静かに一礼した。
「旦那様。……いえ、ジュリアン様。これが、私のお渡しできる最後の書類でございます」
モランが床に置いたのは、古びた一冊の革綴じの帳簿だった。
「それは……?」
「五年前、先代様がお亡くなりになった際、クラリス様が作られた『カーディス侯爵家再建計画書』の原本でございます」
モランは深く、重いため息をついた。
「クラリス様は、毎月毎月、睡眠時間を削ってこの計画を遂行しておられました。羊毛の加工工場に自ら足を運び、職人たちの不満を聞き、王室御用達の商会に頭を下げて販路を確保し……すべては、ジュリアン様が胸を張って『侯爵』として生きていけるようにするためでございました」
「クラリスが……頭を、下げて……?」
「ええ。クラリス様は決して感情を表に出す方ではありませんでしたが、その行動のすべてが、当家に対する誠意と献身に満ちておりました。それを……『冷たい人形』と呼び捨て、恩を仇で返したのは、他でもないジュリアン様、あなたです」
「モラン……お前まで、俺を責めるのか……!」
「私は先代様に誓った義理を果たしたまででございます。……これ以上、破滅へ突き進むあなたにお仕えすることはできません。どうか、ご自愛くださいませ」
モランは静かに背を向け、二度と振り返ることなく屋敷を出て行った。
カチャリと玄関の鍵が閉まる音が、広大な屋敷に虚しく木霊した。
一人残されたジュリアンは、震える手で床の帳簿を開いた。
そこには、整然とした、見覚えのある流麗な文字がびっしりと並んでいた。
年次ごとの返済計画。
領民の雇用を守るための助成金申請の手順。
そして、ページの余白に小さく書かれたメモ。
『ジュリアン様がこれ以上、重圧に苦しまれませんように。五年後には、きっとすべての借財を完済し、笑顔で式を挙げられますように』
「あ……」
ジュリアンの喉から、声にならない呻きが漏れた。
知らなかった。
いや、知ろうとしなかったのだ。
クラリスがどれほどの覚悟で自分を支えてくれていたのか。
彼女の冷徹に見える態度の裏に、どれほどの深い責任感と気遣いがあったのか。
自分はそのすべてを踏みにじり、あろうことか他の女のために彼女の誇りである席を奪おうとし、そして――。
――どうぞお幸せに、私のいないところで。
あの日のクラリスの言葉が、耳の奥で轟音となって蘇る。
「う、うわあああああっ!」
ジュリアンは頭を抱えて絶叫した。
後悔が、恐怖が、胸を焼き尽くすように押し寄せてくる。
だが、追い詰められた愚かな脳髄は、正常な反省を拒絶した。
歪んだ希望の光が、ジュリアンの瞳に怪しく灯る。
「そうだ……クラリスは、俺を愛してくれていたんだ……!あんなメモを残すほど、俺のことを思っていたんじゃないか!」
ジュリアンは狂ったように笑い出し、帳簿を胸に抱きしめた。
「あいつは怒っているだけだ! 俺が少し浮気心を出したから、拗ねて意地を張っているだけに決まっている! 俺が心から謝れば……土下座して『お前しかいない』と抱きしめれば、クラリスは絶対に許してくれる!」
ジュリアンは立ち上がり、埃まみれの上着を払いもせず、爛々と輝く目で扉を見つめた。
「待っていろ、クラリス。今、お前を迎えに行ってやるからな……!」
しかしジュリアンは知らなかった。
クラリスが離脱時に残した監査記録に基づき、彼がエレナへの貢ぎ物のために独断で手を付けた『王室復興補助金の横領』の証拠が、すでに貴族院特別司法局へと正式告発されているということを。
破滅への断頭台の刃は、すでに彼の首元へと振り下ろされようとしていた。




