第4話 氷の宰相の真意
「――外務省の、特命全権補佐……?」
月光に照らされたテラスで、私は思わずアルフレート殿下の言葉を反芻した。
夜風が、アルフレートの黒い上着の裾を静かに揺らしている。
彼は軍服の内ポケットから、王家の銀印が押された一通の羊皮紙を取り出し、私へと差し出した。
「国王陛下の御璽もすでに受けている。君さえ首を縦に振ってくれれば、明日からでも有効な辞令だ」
差し出された書状に目を落とすと、そこには確かに私の名――『クラリス・フォン・ランベール』と、筆頭外務卿補佐としての官位が、威厳ある筆致で記されていた。
王族や高位貴族の飾り職ではない。外交政策の立案と各大使館との折衝を担う、国家中枢の重職だ。
「ですが、殿下……わたくしは婚約を解消したばかりの身です。社交界では様々な憶測が飛び交うでしょう。そのような傷のついた身で、国家の公職に就くなど……」
「傷だと?」
アルフレートが低く、呆れたように息を漏らした。
そして、私の瞳を射抜くようにまっすぐに見つめてくる。
「愚かな男の浅慮によって婚約を破棄されたことが、なぜ君の瑕疵になる? 泥を塗られたのはカーディス侯爵の方だ。君の誇りにも、君が積み上げてきた実績にも、何一つ瑕などついてはいない」
「……実績、ですか」
「知らぬとでも思っていたのか?」
アルフレートはわずかに口元を緩め、夜空を見上げた。
「三年前、カーディス侯爵領が大水害に見舞われた際、王宮に届いた復興計画書だ。資材の調達順路、近隣諸国からの小麦輸入ルートの再編、そして水門の工期日程……提出者はカーディス侯爵の名になっていたが、現場の官吏たちは口を揃えて言っていたよ。『すべてランベール公爵令嬢が徹夜で書き上げたものだ』とな」
「っ……」
「それだけではない。近隣の商業都市との羊毛交易協定もそうだ。関税の引き下げ交渉において、相手国の法規の抜け穴を突き、完璧な条約案を作成したのは君だ。あの男は君が作った書類にサインをし、手柄を誇らしげに吹聴していただけだった」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
誰にも見られていないと思っていた。
先代侯爵への恩義と、婚約者としての義務感から、すべてジュリアンの手柄として王宮に提出させていた書類の数々。
当のジュリアン本人からすら「お前は書類整理しか能がない」と蔑まれていた日々の努力を――この人は、すべて見ていてくれたのだ。
「君の類いまれな知性と統率力を、あのような身勝手な男の足元に埋もれさせておくなど、国家にとって耐え難い損失だ。私は五年もの間、君がすり減っていく姿を苦々しく思いながら見守るしかなかった」
アルフレートが一歩、私へと歩み寄る。
その距離が縮まるにつれ、彼が纏う白樺と白檀の清冽な香りが鼻腔をくすぐった。
「クラリス嬢。私は君を庇護したいのではない。憐れみで手を差し伸べているのでもない」
彼は私の瞳を逃がさないように見つめ、一言一言、噛み締めるように言った。
「私は君の知性を、君の誇り高く美しい魂を、誰よりも尊敬している。だからこそ――対等な同志として、私の隣に立ってほしいのだ」
「……対等な、同志……」
かつてジュリアンから投げつけられた言葉が、脳裏を掠める。
――お前は完璧すぎて、可愛げがない。
――男の庇護を必要としないお前には、心が無い。
私は、誰かにとっての都合のいい盾ではなく。
守られるだけの無力な小鳥でもなく。
一人の人間として、自分の足で立ち、背中を預け合える相手を、ずっと渇望していたのだと気づかされた。
「……殿下」
私は深く息を吸い込み、冷えていた両手を胸の前で重ねた。
そして、凛として頭を上げる。
「わたくしでお役に立てるのならば、喜んでその任をお受けいたします」
アルフレートの青灰色の瞳に、パッと眩い光が灯った。
社交界で『氷の宰相』と恐れられる冷徹な男が、まるで少年のように誇らしげで、温かな微笑みを浮かべる。
「ありがとう、クラリス。……君を迎えることができて、心から光栄に思う」
差し出された彼の大きな手を、私は自らの手でしっかりと握り返した。
夜風が通り抜けるテラスで、私の新しい人生が、確かに動き出した瞬間だった。
***
それから数日後。
王立外務省の執務室は、心地よい緊張感に包まれていた。
「クラリス補佐官、帝国との関税交渉に関する修正案がまとまりました!ご確認をお願いできますでしょうか!」
「拝見します。……ええ、第4条の流通課税に関する文言が曖昧ですね。ここを明確にしておかないと、相手国の法廷で異議を申し立てられた際に不利になります。このように修正してください」
「は、はいっ! 流石です、すぐに書き直します!」
執務机に向かう私の周囲では、若手官僚たちが活気ある声を掛け合っていた。
就任当初こそ「公爵令嬢に何ができるのか」と訝しむ視線もあったが、私の実務能力と、各国法規に関する知識の深さを目の当たりにすると、彼らの態度は瞬く間に心からの敬服へと変わっていった。
「相変わらず手際がいいな、クラリス」
部屋の奥の執務机から、書類に目を通していたアルフレートが顔を上げた。
その表情には、信頼に満ちた穏やかな光がある。
「殿下のお力添えがあってこそです。皆さんがとても協力的で、これほど仕事がしやすい環境は初めてです」
「君が実力で彼らを心服させたのだ。……あまり根を詰めすぎるなよ。君は昔から、自分の限界を無視して働きすぎる悪癖がある」
アルフレートが立ち上がり、自ら淹れた温かい紅茶のカップを私の机に置いた。
高貴な王弟殿下に給仕をさせてしまうなど恐れ多いことだが、彼にとってはこれが日常の「対等な気遣い」なのだ。
「ありがとうございます、殿下」
湯気の立つ紅茶を一口含むと、心地よい柑橘の香りが広がり、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
誰かに認めてもらえることが、自分の存在を祝福されることが、これほど温かいものだったのだと、私は日々実感していた。
***
――その一方で。
王都の反対側に位置するカーディス侯爵邸は、地獄のような惨状と化していた。
「な、なんだこれは……! おいモラン!この手紙の山は一体どういうことだぁっ!?」
王宮憲兵隊から身元引受人を通じて釈放され、ほうほうの体で屋敷に戻ってきたジュリアンは、サロンのテーブルを見るなり絶叫した。
そこには、赤色と黄色の警告用蝋封が押された、分厚い封書がうずたかく積み上げられていたのだ。
その数、優に百通を超えている。
疲れ果てた顔の老執事モランが、幽鬼のような足取りで進み出た。
「旦那様……すべて、各大商会および銀行からの『即時一括請求書』でございます」
「い、一括請求だと!? 待て、俺は先月も言ったはずだ! 支払いは分割で、年末に領地の収益が入ってからだと!」
「それが、叶わなくなりました」
モランの声には、もはや何の感情もこもっていなかった。
「建国記念夜会での一件が、すでに王都中に知れ渡っております。旦那様がランベール公爵令嬢から婚約を破棄され、さらにドレス代を巡って憲兵隊に連行されたという醜聞が広まった結果……すべての取引先が『カーディス侯爵家に支払い能力なし』と判断いたしました」
「な、なんだと……!?」
「服飾商会『シェリー』より、夜会用特注ドレス代金、金貨千二百枚。宝石商『ラザール』より、ティアラ代金、金貨三千枚。王都酒商組合より、未払いワイン代、金貨八百枚。馬車ギルドより……」
「やめろ! 読み上げるな!」
ジュリアンは耳を塞ぎ、額から滝のような脂汗を流した。
「ば、馬鹿な……! なぜそんな額になる! いつもはこんな請求、届いたことなどなかったぞ!」
「いつもは、クラリス様が公爵家の私財より、期日通りにすべて決済されていたからでございます!」
モランの悲痛な叫びが、がらんとしたサロンに木霊した。
「旦那様が贅沢な暮らしを維持できていたのは、当主としての才覚などではございません! クラリス様が実家の持参金を前借りし、当家の赤字をすべて埋めてくださっていたからなのです!」
「う、嘘だ……! そんな話、俺は聞いていないぞ!」
「毎月、報告書を執務机にお届けしておりました! それを『小難しい書類を見るのは頭が痛くなる』と破り捨てていたのは、旦那様ご自身でございます!」
「ぐっ……!」
ジュリアンは言葉に詰まり、よろめいて壁に手をついた。
そこへ、奥の部屋から寝間着姿のエレナが、不機嫌そうにドタドタと足音を立てて現れた。
「ちょっとジュリアン様! 朝からうるさいですわ! それより、私のお気に入りの美容師が今朝ドタキャンしたのですけれど、どういうことですの!? 今夜の観劇に着ていく新しいドレスもまだ届きませんし!」
エレナは唇を尖らせ、ジュリアンの腕を乱暴に引っ張った。
夜会で恥をかかされたことへの怒りも冷めやらぬまま、彼女は相変わらず贅沢を要求してくる。
「か、観劇だと……? そんな金がどこにある!」
「はあ!? 何をおっしゃっているの? お金ならあるでしょう、あなた侯爵様じゃありませんの!私を侯爵夫人に迎えて、贅沢させてくれるっておっしゃいましたわよね!?」
「だ、だが、口座が凍結されていて……領地の収益が入れば……」
「旦那様」
モランが、とどめを刺すように冷酷な事実を告げた。
「領地からの収益など、一銭も入ってまいりません。我が領地の特産品であった羊毛は、ランベール公爵家の流通網と加工特許に依存しておりました。クラリス様が契約を解除されたため、領内の全工場が操業を停止。失業した領民たちが、領主館を取り囲んで暴動を起こしかけているとの急報が届いております」
「ぼ、暴動……!?」
「さらに、中央銀行からの通達です。三日以内に負債の頭金、金貨五千枚を納廷しなければ……このカーディス侯爵邸、および領地の全資産を差し押さえると」
サロンが、完全に凍りついた。
「……え?」
エレナがジュリアンの腕から、サッと音を立てるように手を引いた。
その瞳から甘えた光が完全に消え失せ、冷たく濁った侮蔑の色が浮かび上がる。
「……嘘でしょう? あなた、ただの借金まみれの無能だったの……?」
「エ、エレナ……? 何を言うんだ、俺たちには愛が――」
「愛ぃ!? お金のない貴族の愛に、何の価値があるっていうのよ! 冗談じゃないわ、こんな貧乏屋敷に閉じ込められるなんて御免よ!」
「エレナ!」
ジュリアンが縋り付こうと伸ばした手を、エレナは汚い汚物でも見るかのように払い除けた。
金がない。
信用もない。
愛していたはずの女は、手のひらを返して自分を嘲笑う。
真っ白になった頭の中で、ジュリアンの脳裏に、あの凛とした冷徹な姿が浮かび上がった。
――どうぞお幸せに、私のいないところで。
「あ……」
ジュリアンは震える手で自らの頭を抱え、獣のような喘ぎ声を漏らした。
「クラリス……そうだ、クラリスだ……! あいつが戻ってくればいいんだ! あいつが全部、元通りに片付ければ済む話なんだ!」
狂気じみた光を瞳に宿らせ、ジュリアンは叫んだ。
「馬車を出せ! 王宮だ! クラリスを連れ戻すぞ!」
足元が完全に崩れ落ちていることにも気づかず、愚かな男は、さらなる破滅の深淵へと走り出そうとしていた。




