第3話 王宮の門前払い
王宮の大広間は、建国を祝う数百本の蝋燭の光と、着飾った貴族たちのざわめきに満ち溢れていた。
「見て、ジュリアン様! 皆様が私を見ていらっしゃいますわ!」
大理石の床を踏みしめながら、エレナは誇らしげにジュリアンの腕をぎゅっと抱きしめた。
全身を覆う過剰なピンクのフリル、歩くたびにカチャカチャと安っぽい音を立てる大粒のティアラ。本人は「王都で一番輝く花」のつもりなのだろう。
だが、周囲の貴族たちが向けているのは、称賛の眼差しなどでは毛頭なかった。
伝統と格式を重んじる建国夜会において、あまりに場違いで下品な原色のドレス。
そして何より、由緒あるカーディス侯爵が、名門ランベール公爵家の婚約者を差し置いて、貧乏男爵家の娘などという『正体不明の愛人』を公然と連れ歩いている異常さ。
貴族たちは扇で口元を隠し、冷ややかな嘲笑を交わしていた。
「……まあ、あれがカーディス侯爵の連れですの?」
「ランベール公爵令嬢はどちらへ? あんな品のない小娘に乗り換えたという噂は本当でしたのね」
「ドレスの色合わせも知らないのかしら。まるで場末の劇場の踊り子ですわ」
そんな冷淡な囁きが耳に入らないのか、ジュリアンは得意満面に胸を反らし、大広間の中央を闊歩していた。
「当然さ、エレナ。今夜のお前は誰よりも美しい。さあ、あの薄暗い壁際で群れている有象無象を見下ろしてやろう。俺たちの席は、あの上だ」
ジュリアンが指差したのは、大広間を遥か上方から見下ろす、白大理石の優美なアーチで囲まれた『王宮バルコニー主賓席』だった。
金糸の天蓋が掲げられ、限られた特権階級のみが立ち入ることを許された聖域。
「まあ……! 素敵! 早く行きましょう、ジュリアン様!」
エレナは待ちきれないようにドレスの裾を持ち上げ、バルコニー席へと続く専用の大階段を駆け上がろうとした。
ジュリアンもまた、勝者の笑みを浮かべてその後に続く。
だが――。
「止まりなさい」
階段の入り口に直立していた二名の近衛兵が、交差させた長槍で二人の行く手を無情に阻んだ。
「立ち入り制限区域です。これより先は、王家直系の許可証をお持ちの方以外、足を踏み入れることは禁じられております」
「な……!?」
ジュリアンは額に青筋を立て、傲慢に顎を突き出した。
「無礼者! 俺の顔を忘れたのか! カーディス侯爵ジュリアンだぞ! この席を利用することは、ランベール公爵令嬢クラリスよりすでに了承を得ている!」
「カーディス侯爵閣下でいらっしゃいますか」
近衛兵はピクリとも表情を変えず、手元の名簿に視線を落とした。
「恐れながら、本日のバルコニー主賓席の利用資格者名簿に、貴殿のお名前はございません。また、同伴者として登録されている令嬢のお名前も存在いたしません」
「バカなことを言うな! 名簿の更新が遅れているだけだろう! クラリスが俺に席を譲ると言ったんだ!どけ、俺を通せ!」
「ジュリアン様ぁ……怖い衛兵さんたちですわ……早く通してくださいまし……」
エレナがわざとらしく怯えてジュリアンの背中に隠れる。
女の前で恥をかかされたと感じたジュリアンは激昂し、近衛兵の胸倉を掴もうと手を伸ばした。
「貴様らのような下級兵卒が、侯爵であるこの俺に指図するな! 責任者を呼べ! 首を刎ねて――」
「――誰の首を刎ねるというのだ、カーディス侯爵」
広間の熱気を一瞬で氷点下に叩き落とすような、低く、冷徹な声が響き渡った。
大階段の上から、コツ、コツと規則正しい軍靴の音が降りてくる。
漆黒の礼装用軍服に身を包み、肩から真紅の飾緒を垂らした長身の偉容。
磨き上げられた銀のサーベルを佩き、怜悧な青灰色の瞳でジュリアンを見下ろしているのは――。
「あ……ア、アルフレート殿下……!?」
ジュリアンの顔から、一瞬で血の気が引いた。
現国王の実弟にして近衛総督、そして外務卿。
社交界において最も恐れられ、最も敬意を集める最高権力者――アルフレート公爵殿下その人だった。
大広間のざわめきが潮が引くように消え去り、数百名の貴族たちが息を呑んで階段下を注視する。
ジュリアンは慌てて取り繕うように胸元に手を当て、ぎこちない礼を取った。
「こ、これは殿下! お見苦しいところをお見せいたしました!この近衛兵たちが融通の利かないことを申しまして……! 俺はランベール公爵令嬢からバルコニー席を譲り受けたのです! どうか殿下の権限で、この兵たちに通すようお命じください!」
だが、アルフレートは眉一つ動かさず、凍てつくような眼差しでジュリアンを一瞥した。
「ランベール公爵令嬢から譲り受けた、だと?」
「は、はい! 彼女は俺の婚約者ですから、夫となる俺が席をどう使おうと自由なはず――」
「戯言を」
アルフレートの氷の刃のような一言が、ジュリアンの言葉を真っ二つに切り裂いた。
「昨夜、ランベール公爵当主ギルバート卿、およびクラリス嬢連名による『婚約解消届』が、王室法務院に正式提出され、すでに受理された。貴殿とクラリス嬢の間に、もはや何の契約も存在しない」
「な……!?」
ジュリアンが目を見開き、口をパクパクと金魚のように開閉させた。
「こ、婚約解消……!? そ、そんなはずはない! 俺はまだサインなどしていないぞ!?」
「先代侯爵の遺言による婚約規約、第十四条――『当事者の一方が不貞を働き、または相手方の名誉を著しく損なう言動があった場合、公爵家側は単独で即時破棄を通告できる』。これに基づき、王室法務院が適法と認めた」
アルフレートは無表情のまま、副官から差し出された書類をジュリアンの目の前に突きつけた。
「さらに、ランベール公爵家より、貴殿に対する『公爵家名義の特権利用権の完全剥奪』が通達されている。このバルコニー席はランベール家の専属席だ。婚約者でもない貴殿が立ち入る権利など、爪の先ほども存在しない」
「そ、そんな……! 嘘だ! クラリスがそんなことをするはずがない! あいつは俺に『どうぞお幸せに』と笑って――」
「それだけではないぞ、カーディス侯爵」
アルフレートの声が、さらに一段と冷たさを増した。
「そこの令嬢が身につけているドレス、および貴殿の礼服についてだ。服飾商会『シェリー』および『宝石商ラザール』より、王宮憲兵隊に通報が入っている。『ランベール公爵家の信用保証を偽り、代金を支払う見込みのないまま数百本の金貨に相当する品を騙し取られた』とな」
「ひっ……!?」
エレナが短い悲鳴を上げてジュリアンの後ろへ後ずさった。
「さ、詐欺だと申されるのですか!? 俺は侯爵だぞ! ツケで買っただけだ! 後で払えば済む話だろうが!」
「貴殿の銀行口座は、すでに債務超過により今朝全額凍結されている。支払能力のない者が身分を偽ってツケで品を持ち去れば、それは貴族の商慣習ではなく、ただの不法占有――すなわち詐欺罪だ」
アルフレートが冷然と手を振ると、背後から抜剣した近衛兵たちが一斉にジュリアンとエレナを取り囲んだ。
「王宮の神聖なる夜会に、不法侵入した上に詐欺の容疑がある者を留め置くわけにはいかない。憲兵隊の詰め所まで同行願おう」
「待て! 離せ! 俺は侯爵だぞ! クラリスを呼べ! クラリスをここに連れてこい! あいつが一言『私の勘違いでした』と言えば済む話なんだ!」
ジュリアンは取り乱し、近衛兵の腕を振り解こうと見苦しく暴れ狂った。
その拍子に、エレナの派手なドレスの裾が踏まれ、ビリッと無残な音を立てて破け散る。
「きゃああああっ! 私のドレスが! ジュリアン様、助けて! こんなの聞いてないわ! あなた、大金持ちの侯爵様じゃなかったの!?」
「うるさい、黙っていろエレナ! クラリス! クラリスはどこだぁっ!?」
大広間に集まった貴族たちから、容赦のない嘲笑と侮蔑の視線が浴びせられる。
「まあ、見苦しい……」
「公爵家の金を自分の金だと錯覚していたのね」
「あの女も同類よ。他人の婚約者にすがりついて、泥棒同然にドレスを掠め取ろうとしたのだから」
ジュリアンとエレナは、王都中の貴族が見守る中、両脇を屈強な兵に抱えられ、泥棒のように大広間の出口へと引きずられていく。
その時――。
ジュリアンの視線が、大階段の最上段、燦然と輝く光の集まる場所へと吸い寄せられた。
「あ……」
そこに、立っていた。
夜空の深淵をそのまま切り取ったような、ミッドナイトブルーのドレス。
無数の星屑ダイヤモンドが天の川のように煌めき、見る者すべての視線を奪う圧倒的な威厳と美貌。
凛として背筋を伸ばし、国王陛下の御座のすぐ側、王弟アルフレートの立つべき最高位の席に、彼女はいた。
「ク……クラリス……?」
ジュリアンの喉から、掠れた声が漏れる。
そこにいたのは、彼が「可愛げのない冷たい人形」と見下していた女ではなかった。
国の中心に立つにふさわしい、息を呑むほどに誇り高く、眩いばかりの光を放つ、真の公爵令嬢だった。
「クラリス! クラリス、俺だ! ジュリアンだ! 頼む、誤解を解いてくれ! お前なら俺を――!」
必死に叫ぶ元婚約者に対し、クラリスは静かに手にしていた扇子を広げた。
そして――。
すっと、氷のように冷たい瞳でジュリアンを一瞥すると、何の感情も浮かべないまま、ふいと視線を逸らした。
怒りも、嘲笑も、悲しみすらない。
ただ、そこに転がる石ころを見つめるような、絶対的な無関心。
「連れて行け」
アルフレートの冷酷な号令とともに、ジュリアンとエレナは王宮の扉の向こうへと引きずり出され、重厚な扉がガチャンと音を立てて閉ざされた。
***
夜会の熱気が再び戻り、オーケストラの優雅な調べが広間を満たす中。
大広間から続く、静かな月光に照らされたテラスに、私は一人佇んでいた。
夜風が、火照った肌を優しく冷ましていく。
胸の中には、不思議なほどの静寂があった。
五年間の苦労が、あの男の醜態によって完全に過去のものとなったのだという、確かな解放感。
「――寒くはないか、クラリス嬢」
背後からかけられた低く温かな声に、私は振り返った。
先ほどまで氷のような威厳を放っていたアルフレート殿下が、穏やかな眼差しを浮かべて歩み寄ってくる。
その手には、温かな香草茶の入った銀のカップが二つ握られていた。
「殿下。……先ほどは、見事なお取り計らいをありがとうございました」
私が礼を取ろうとすると、アルフレートはそれを手で制し、銀のカップを一つ手渡してくれた。
「礼を言う必要はない。私は法に従い、王宮の秩序を乱す不法侵入者を排除したにすぎない」
アルフレートはテラスの手すりに寄りかかり、夜空を見上げた。
月光に照らされたその横顔は、彫刻のように整っていて、どこか遠いものを見つめているようだった。
「……だが、胸のすく思いだったよ。君を五年間も縛り付け、その才覚を踏みにじり続けた男が、自らの浅ましさによって自爆していく姿を見るのはな」
「殿下……」
「見事な手切れだった、クラリス嬢。『どうぞお幸せに、私のいないところで』……だったか。君のあの言葉をギルバートから聞いた時、私は君という女性の気高さに、改めて心を奪われた」
アルフレートはカップを傾け、私へと向き直った。
その青灰色の瞳には、社交界で恐れられる『氷の宰相』の冷徹さは微塵もなかった。
ただ、私という一人の人間を、深く、真摯に見つめる熱だけが宿っている。
「君の席は、あの男の足元などではない。……クラリス嬢、かねてより準備していた話を、受けてもらえるだろうか?」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
差し出されたアルフレートの大きな手が、月光の下で私を待っていた。




