第2話 一晩で消えたもの
翌朝、カーディス侯爵邸の空気は、凍りついたように静まり返っていた。
「……な、なんだこれは!? 一体どういうことだ!」
昼近くになってようやく寝室から起きてきたジュリアンは、サロンに足を踏み入れた瞬間、血相を変えて叫んだ。
昨日までそこにあったはずの豪奢な空間が、無残に剥ぎ取られていたからだ。
壁に掛けられていた名画の数々が消え、大理石の暖炉の上を飾っていた古代魔導時代の花瓶もなく、床を覆っていた最高級の絨毯さえ綺麗に巻き取られていた。
そこにあるのは、傷のついた床板と、先代侯爵の時代から残る古びた木製テーブルだけ。
呆然と立ち尽くすジュリアンの前へ、老執事モランが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「だ、旦那様……! 今朝一番、ランベール公爵家の法廷代理人と輸送部隊が乗り込んでまいりまして……!」
「ランベール公爵家だと!? なぜ奴らが俺の屋敷の調度品を勝手に持ち出す! 強盗か!」
「滅相もございません! すべて、クラリス様が私財より持ち込まれていた『私有財産』でございます……!」
モランは震える手で、分厚い羊皮紙の目録をジュリアンに差し出した。
「クラリス様が当主代行としてこの屋敷に入られた際、持ち込まれた家具、装飾品、絵画、果ては銀器の一式に至るまで……すべて公爵家の所有物として契約書が交わされておりました。婚約解消に伴い、規約に基づき即日回収されたのでございます」
「なっ……! あいつ、本当に荷物を引き払ったというのか!?」
ジュリアンは忌々しそうに舌打ちをし、乱暴に髪を掻きむしった。
「くだらん! なんという狭量な女だ! 俺が少しエレナを優先したからといって、家具を持ち出して嫌がらせをするとは! 公爵令嬢のやることか!」
「旦那様、問題は家具だけではございません!」
モランが悲痛な叫び声を上げた。その額にはびっしりと冷や汗が滲んでいる。
「クラリス様付きで派遣されていた料理長、主席会計士、そして領地管理の専門官たち十数名が、全員辞表を提出して屋敷を去りました!彼らの給与はすべてランベール公爵家から直接支払われていたため、当家には引き止める権利がございません! さらに……」
「まだ何かあるというのか!?」
「中央銀行より、通達が届いております……。『ランベール公爵家の信用保証枠が消滅したため、カーディス侯爵家に対する全当座貸越口座を今朝九時をもって凍結した』と……!」
「――は?」
ジュリアンの口から間抜けな声が漏れた。
「口座の凍結……? 何を言っているんだ。俺は侯爵だぞ? 名門カーディス家の当主だ! なぜ銀行が俺の口座を止める!?」
「旦那様、お忘れなのですか!?」
モランは耐えかねたように声を荒らげた。
「先代様がお亡くなりになった際、当家には三千万ゴールドもの莫大な負債がございました! それをランベール公爵家が連帯保証人となることで、返済を猶予され、追加の融資枠を確保していたのです! クラリス様という後ろ盾を失った今、銀行から見れば当家はただの『債務超過に陥った危険な貴族』にすぎません!」
「な、なにを……」
ジュリアンは一瞬たじろぎ、目を見開いた。
だが、次の瞬間にはその顔に傲慢な嘲笑が戻っていた。
「ふん、脅かすなモラン。どうせ銀行の奴らも、クラリスに頼まれて芝居を打っているだけだ。あいつは頭のいい女だからな、そうやって俺を困らせて、自分のもとへ頭を下げさせようとしているのさ」
「だ、旦那様……!」
「いいか、モラン。女の癇癪なんてものは、放っておけば三日で治る。俺がちょっと甘い言葉を囁いてやれば、あいつは泣いて喜んで、全部元に戻すに決まっているんだ」
ジュリアンは軽く肩をすくめ、完全に事態を甘く見ていた。
彼にとって、クラリスは『物心ついた時から自分の世話を焼き、何をしても許してくれた都合のいい婚約者』でしかなかったのだ。
そこへ、サロンの扉が開き、着飾ったエレナが軽やかな足取りで入ってきた。
「ジュリアン様ぁ! おはようございます! ……あら? なんだかお部屋ががらんとしていますわね?」
「ああ、エレナ。気にするな、模様替えの最中だ」
ジュリアンは一瞬で相好を崩し、エレナの腰を抱き寄せた。
エレナは胸元にすり寄り、甘ったるい声でジュリアンを見上げる。
「それよりジュリアン様、お願いがございますの。明日の建国夜会に着ていくドレスなのですが……やっぱり、王都一番の高級店『シェリー』の特注品がいいですわ! それに合わせて、宝石商『ラザール』でダイヤモンドのティアラも新調してくださらない? あの上品なバルコニー席に立つんですもの、誰よりも輝いて、ジュリアン様の自慢の恋人になりたいんです!」
「もちろんだとも、エレナ! お前のためなら、王都中の宝石を買い占めてやるさ」
ジュリアンは胸を張り、執事モランの絶望的な視線を無視して言い放った。
「さあ、馬車を出せ! 王都の大通りへ買い出しに行くぞ!」
「お待ちください、旦那様! 口座が凍結されているのです! 今これ以上の買い物をなさっては――!」
「うるさい! 支払いはすべて侯爵家のツケにしておけばいいんだ!俺を誰だと思っている、カーディス侯爵だぞ!」
忠臣の悲痛な叫びを背に受けながら、ジュリアンはエレナの手を取り、意気揚々と屋敷を出て行った。
――王都屈指の老舗服飾店『シェリー』と、宝石商『ラザール』。
ジュリアンは店主たちに対し、「いつも通り、当主のサインでツケにしておけ」と尊大に命じ、展示されていた最高値のピンクのフリルドレスと大粒のティアラを強引に持ち去った。
店側は「ランベール公爵家の決済保証」があるものと信じて品を渡したが、その直後、公爵家に確認の書類を届けた店主たちは、冷酷な事実を突きつけられることになる。
『カーディス侯爵家に対する保証契約は、今朝をもってすべて解除されました。当家は一切の支払いを保証いたしません』
真っ青になった店主たちが、即座に王宮憲兵隊へ「無資力による詐欺および品物の不法占有」として被害届を叩きつけたことなど、浮かれ切ったジュリアンは知る由もなかった。
***
その頃。
王都の一角にそびえる、白亜の巨城――ランベール公爵邸。
陽光が差し込む広大な温室テラスで、私は兄ギルバートと共に、静かに紅茶を口にしていた。
テーブルの上には、王都の中央銀行や各大商会から届いた、契約解除の確認受領書が整然と並べられている。
「手際がいいね、クラリス。朝の九時までに、カーディス侯爵家に関する全権利の引き揚げと口座凍結の通達が完了したよ」
ギルバートは楽しそうにティーカップを傾け、冷徹な笑みを浮かべた。
「あの馬鹿息子、今頃どんな顔をしているだろうね。自分の足元を支えていた大地が、ただの泥沼だったと気づいたかな?」
「いいえ、兄様。ジュリアン様は、まだ何一つ理解していらっしゃらないと思います」
私は静かに首を横に振った。
「彼はこれまでの人生で、一度も『お金の出所』や『契約の重み』を考えたことがありません。すべて自分が侯爵だから、自分が愛されているから与えられて当然だと思い込んで生きてこられました。おそらく……今も、私が嫉妬で意地を張っている程度にしか思っていないでしょう」
「哀れな道化だな。……だが、容赦はしないよ。我がランベール公爵家の名を泥で汚そうとした報いは、骨の髄まで支払ってもらう」
ギルバートの青い瞳に、貴族社会の頂点に立つ者特有の冷徹な光が宿る。
「ところでクラリス。先ほど、王弟府から使者が訪れてね。君宛てに、これが届いたよ」
兄が指差した先には、豪奢な黒漆塗りの木箱が置かれていた。
蓋には、王家の紋章である『銀の双頭鷲』の刻印が刻まれている。
王弟アルフレート殿下からの、直接の贈り物だった。
私が木箱の留め金を外すと、中から現れたのは――言葉を失うほどに美しい夜会用のドレスだった。
夜空の深淵をそのまま布地に織り込んだような、深いミッドナイトブルーのシルク。
袖口と裾には、無数の極小の星屑ダイヤモンドが散りばめられ、光の角度によって天の川のように煌めく。
派手すぎず、けれど見る者すべてを圧倒するような気品と威厳に満ちた、一目で最高峰の職人が仕立てたと分かる逸品だった。
添えられていた手紙には、流麗で力強い文字が並んでいる。
『明日の建国夜会、君の誇りにふさわしい装いを用意させた。
バルコニー席などという狭い場所ではなく、私の隣――国王陛下の御座のすぐ側で、君を待っている。
アルフレート・フォン・ヴァルハイト』
「……殿下は、本当に私を……」
胸の奥が、トクンと小さく跳ねた。
ジュリアンと過ごした五年間、私は常に『裏方』だった。
ドレスを新調する予算があれば侯爵領の補修費に回し、夜会ではジュリアンが他の貴族に粗相をしないよう、壁際から常に目を光らせて根回しをしていた。
誰かに守られることも、美しいものを贈られることも、当たり前のこととして扱われることもなかった。
「アルフレート殿下は、君の五年間の働きを誰よりも知っておられる」
ギルバートが優しく私の手に自らの手を重ねた。
「君が侯爵領で成し遂げた流通改革も、水路の補修計画も、すべて殿下の外務省と工部省に記録されているよ。殿下は君という才能が、あの愚か者のもとで磨り減っていくのをずっと歯痒く思っておられたんだ。……クラリス、もう誰かのために自分を押し殺す必要はない。君の真価を、明日、社交界の全員に見せてやるといい」
「……はい、兄様」
私はドレスに触れ、深く息を吸い込んだ。
指先に伝わる上質なシルクの滑らかさが、私に新たな覚悟を与えてくれる。
私はもう、誰かの都合のいい踏み台ではない。
自分の足で立ち、自分の知性で道を切り拓くのだ。
***
翌日――建国記念夜会の夕刻。
カーディス侯爵邸の車寄せには、ジュリアンとエレナの姿があった。
エレナは、高級店から騙し取るように持ち出した派手なピンク色のフリルドレスを身に纏い、頭には大粒のダイヤモンドが散るティアラを載せている。
ジュリアンもまた、金糸の刺繍が過剰に施された真新しい礼服を着込み、満足げに鼻を鳴らしていた。
「見て、ジュリアン様! 私、まるで本物のお姫様みたい!」
「ああ、最高に美しいよエレナ。今夜の夜会でお前以上の花はいないさ」
ジュリアンはエレナの腰を抱き寄せ、唇を寄せた。
「旦那様……! お願いでございます、今宵の夜会へのご出席はお取りやめください! 王宮からバルコニー席の正式な利用証は届いておりません! それに、商会側から不穏な通告が――」
「ええい、黙れ老いぼれ!」
ジュリアンはモランを乱暴に払いのけた。
「利用証などなくとも、俺の顔パスで通れるに決まっているだろう! ランベール家の娘が婚約者だった男だぞ! 今夜、俺とエレナがバルコニー席に立てば、クラリスも己の敗北を悟って泣きついてくるに決まっている!」
「ジュリアン様、行きましょう! 早くあの素敵なバルコニーから、みんなを見下ろしたいわ!」
「ああ、行こうエレナ!」
ジュリアンはエレナの手を引き、馬車へと乗り込んだ。
モランが地面に崩れ落ち、頭を抱えてすすり泣く姿を、二人は一度として振り返らなかった。
夜の帳が下りた王都を、カーディス侯爵家の馬車が駆け抜けていく。
目指すは、煌々と灯りが灯る王宮。
自分たちが着ている豪奢な衣装が、すでに詐欺の証拠品となっていることも。
目指すバルコニー席の扉に、すでに自らの名が刻まれていないことも。
何一つ知らないまま、二人は嘲笑と歓喜に身を委ねていた。
「さあ、見せてやろうじゃないか」
馬車の窓から王宮の尖塔を見上げ、ジュリアンは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「クラリス、お前がいなくとも、俺は最高に幸せになれるんだということをな!」
――そして馬車は、破滅の待つ王宮の門前へと滑り込んでいった。




