第1話 どうぞお幸せに、私のいないところで
「――お前は完璧すぎて、可愛げがない。俺の愛など、最初から必要としていなかっただろう?」
豪奢なシャンデリアが揺れる、カーディス侯爵邸の応接サロン。
婚約者であるジュリアン・カーディス侯爵は、ソファーの背もたれに深く体重を預け、さも当然といった顔でそう言い放った。
その隣には、淡い桃色のドレスに身を包んだ男爵令嬢、エレナ・モレルが寄り添っている。
エレナはジュリアンの腕に自らの胸を押し当てるように絡めつき、怯えた小動物のような瞳で私――クラリス・フォン・ランベールを見上げていた。
「建国記念夜会のエスコートだが、エレナに譲ってやってくれないか」
三日後。
一年に一度、国王陛下をはじめとする全貴族が集う、国内最大格式の建国記念夜会。
その同伴者を、婚約者である私から、隣の男爵令嬢に変える。
ジュリアンが口にしたのは、貴族社会において公然たる婚約破棄に等しい侮辱だった。
だが、彼の無神経な要求はそれだけに留まらなかった。
「エレナは体が弱く、社交界の荒波に怯えている。可哀想に、男爵家では満足なドレスも仕立ててもらえなかったそうだ。だから、俺が守ってやりたい。……そこでだ、クラリス。ランベール公爵家に下賜されている『王宮バルコニー主賓席』の利用証を、エレナに譲ってほしい」
私の耳が、一瞬、言葉の意味を処理することを拒否した。
王宮の大広間を見下ろす最上階のバルコニー席。
初代国王より、我がランベール公爵家にのみ永久利用が認められている、王家直系の象徴とも言える特権席だ。
「……バルコニー席を、エレナ様に、ですか?」
「そうだ。あそこなら人目を気にせず、エレナも安心して夜会を楽しめるだろう? 名門公爵家の娘であるお前なら、壁際で適当に立っていようが誰も文句は言わない。だが、身分の低いエレナには『格』が必要なんだ」
ジュリアンは得意げに笑い、さも名案を思いついたと言わんばかりに頷いた。
「お前は家柄も良く、何でも一人で完璧にこなしてしまう。領地の帳簿管理も、商会との折衝も、俺の手を借りずにやってのけるだろう? 男の庇護を必要としないお前と違って、エレナには俺しかいないんだ。俺は真実の愛を見つけた。……大人のお前なら、俺の幸せを心から祝福してくれるよな?」
「ジュリアン様、そんな……クラリス様がお可哀想ですわ」
エレナがわざとらしく潤んだ瞳を伏せ、ジュリアンの胸元に顔を埋めた。
「私のような卑しい身の者が、公爵令嬢であるクラリス様からお席を奪うだなんて……。私、ジュリアン様の隣にいられるだけで幸せですのに。でも……あのバルコニーから夜会を見下ろせたら、まるで夢のよう……」
「いいんだ、エレナ。お前が遠慮することはない。クラリスは物分かりのいい女だ。昔から感情を表に出さない、冷たい人形のような奴だからな。俺たちがどれだけ愛し合っているかを見せても、嫉妬すらしないさ」
ジュリアンは愛おしそうにエレナの頭を撫で、勝ち誇った視線を私に向けてくる。
――冷たい人形。
誰のせいで、私が感情を押し殺して生きてきたと思っているのだろう。
五年前。
ジュリアンの父である先代侯爵が急逝した時、このカーディス侯爵家は破綻寸前だった。
放漫経営によって膨れ上がった莫大な負債。
主力産業であった羊毛取引の頓挫。
病床の先代侯爵から涙ながらに「未熟な息子と、罪なき領民を頼む」と手を握られたあの日から、私は婚約者としての義務を果たすため、実家であるランベール公爵家の力を総動員した。
公爵家の信用を担保にして銀行からの融資を取り付け、利権を無償で貸与し、新しい販路を開拓した。
ジュリアンが夜会で『若き有能な領主』として胸を張れるよう、裏で何百枚もの帳簿と契約書を精査し、睡眠時間を削って領地経営の基盤を立て直したのは、他でもない私だ。
それを、この男は――。
喉元まで出かかった怒りと激情を、私は意識の底へと沈めた。
怒鳴り散らしてこの愚かさを詰る?
泣いてこれまでの献身を訴え、慈悲を乞う?
――いいえ。
そんなものは、この男に対する『執着』の証明でしかない。
私の中で、五年間張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れた。
燃え盛る炎のような怒りではない。
それは、深い海の底のように静かで、一切の熱を持たない絶対零度の冷徹さだった。
この男は、自分が立っている地面が、私の血の滲むような努力の上に敷かれた薄氷であることすら理解していない。
私の差し伸べた手を『踏み台』にし、挙句の果てに泥を塗りつけてきたのだ。
「……クラリス? おい、聞いているのか? 早くバルコニー席の利用証を渡し――」
「かしこまりました」
私の澄んだ返答に、ジュリアンが言葉を詰まらせた。
「……あ?」
「建国記念夜会のエスコートのご辞退、謹んでお受けいたします。どうぞ、エレナ様をお連れになって夜会をお楽しみください」
私の顔に動揺も涙もないことを見て、ジュリアンは一瞬拍子抜けしたような顔をし、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「ふん、やはりな。最初からそうやって聞き分ければいいんだ。お前にはプライドしかないのかと思っていたが、自分の立場というものが分かってきたようだな」
「ええ、痛いほど理解いたしました」
私はソファーから音もなく立ち上がった。
背筋をまっすぐに伸ばし、顎を僅かに引き、非の打ち所のない貴族の礼儀作法を身に纏う。
「バルコニー席の利用証に関しましては、ランベール公爵家の家宝に準ずる特権管理下にございますゆえ、本日この場での手渡しは叶いません。正式な手続きを経て、しかるべき処置をとらせていただきます」
「なんだ、手続きが必要なのか? 面倒だな。まあいい、夜会当日までに俺の執務室へ届けておけ」
「ジュリアン様、ありがとうございます……! クラリス様も、こんな私をお許しくださって……」
エレナが勝ち誇った顔で涙を拭う芝居を続けている。
二人の姿が、酷く滑稽で、酷く遠い世界の出来事のように見えた。
私は、カーディス侯爵家の家紋が彫られたティーカップに視線を落とした。
この屋敷を満たす調度品も、彼が身につけている豪奢な礼服も、すべて私の実家が支払いを肩代わりしているものだ。
その恩恵を空気のように吸いながら、私を『可愛げのない女』と切り捨てる。
ならば――その空気を、すべて抜いて差し上げましょう。
私は完璧な角度でスカートをつまみ、深く、優雅にカーテシーを執った。
相手への敬意ではなく、自らの誇りのために。
「カーディス侯爵。これまで長きにわたり、お世話になりました」
「……ん? 大袈裟な挨拶だな。婚約を破棄するわけじゃないんだぞ? 俺はエレナを正妻に迎えるが、お前には側妻として実務を任せてやると言っているんだ。感謝して――」
「――どうぞお幸せに」
私の静かな声が、ジュリアンの言葉を冷たく遮った。
顔を上げた私の瞳に、微塵の迷いも、情の欠片もないことを悟ったのか。
ジュリアンがわずかに眉をひそめ、居心地悪そうに身じろぎする。
私は唇の端を持ち上げ、これ以上ないほど美しく、冷え切った微笑みを浮かべて告げた。
「どうぞお幸せに、ジュリアン様。――私のいないところで」
「……は?」
意味を測りかねて間抜けな声を漏らすジュリアンに、私は二度と視線を合わせなかった。
踵を返し、一度も振り返ることなくサロンの扉へと歩みを進める。
「おい、クラリス! 待て! 今の言葉はどういう意味だ!?」
背後からジュリアンの苛立った呼び声が響いたが、私は立ち止まらなかった。
扉を開け、サロンの外へ出る。
廊下に控えていた老執事モランが、青ざめた顔で私を見ていた。
サロンの中の会話が聞こえていたのだろう。忠義に厚い老人は、震える手で深々と頭を下げた。
「クラリス様……申し訳、ございません……若気の至りとはいえ、当主がこのような……」
「モラン。貴方が謝る必要はありません」
私は歩みを緩めることなく、静かに言った。
「これまで貴方にはよく補佐していただきました。感謝しています。……ですが、私の役目はここまでです」
「クラリス様……!」
取り乱す老執事を背後に残し、私は侯爵邸の重厚な玄関扉をくぐった。
冷たい王都の風が、火照った頬を心地よく撫でていく。
屋敷の車寄せには、ランベール公爵家の漆黒の馬車が静かに待機していた。
御者が恭しく扉を開ける。
乗り込むと、中には一人の青年が座っていた。
艶やかな銀髪に、知性を湛えた怜悧な青の瞳。
我がランベール公爵家の現当主であり、私の実兄であるギルバートだ。
「……終わったかい、クラリス」
兄の低く落ち着いた声に、私は深く頷いた。
「ええ、兄様。すべて、お望み通りに」
ギルバートは細い煙管を指先で弄びながら、冷酷な笑みを口元に刻んだ。
その瞳には、最愛の妹を侮辱されたことに対する、公爵家当主としての底知れぬ怒りが宿っている。
「そうか。あの身の程知らずの小僧は、本当に君を切り捨てたんだね」
「はい。男爵令嬢のためにバルコニー席を譲れと仰いました。大人のお前なら真実の愛を祝福できるだろう、と」
「くく……傑作だな。我が家が代々受け継いできた特権席を、どこの馬の骨とも知れぬ小娘にくれてやれ、と。……先代侯爵への義理立てで生かしておいてやった恩を、骨の髄まで忘れてしまったらしい」
ギルバートは手元の革張りの書類入れを開き、数枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、これまでカーディス侯爵家に提供されてきた膨大な支援の目録が記されている。
「ランベール公爵家の信用保証による、中央銀行からの低利融資枠の全額即時停止」
「王室御用達織物商会との独占販売契約の解除」
「侯爵領における水利権および特許技術の無償使用契約の失効」
「そして――クラリス・フォン・ランベール個人の私財より拠出されていた、侯爵邸の全維持管理費の引き揚げ」
ギルバートが淡々と読み上げる条項は、どれもカーディス侯爵家の生命線を一瞬で断ち切る劇薬ばかりだ。
「これらに署名すれば、明朝にはすべて執行される。……いいんだね、クラリス?」
兄の問いかけに、私は迷うことなくペンを取った。
インクを浸し、羊皮紙の最下部に、流麗な筆致で自らの名を署名する。
――クラリス・フォン・ランベール。
「ええ。何一つ、残す必要はありません」
私は署名し終えた書類を兄に手渡した。
「ジュリアン様は仰いました。『俺の幸せを心から祝福してくれるよな』と。ですから、私は彼の望みを叶えて差し上げたのです。愛する女性と共に、二人だけの力で生きていかれるのでしょう」
馬車がゆっくりと車輪を軋ませ、侯爵邸の鉄門を抜けていく。
車窓から見上げるカーディス侯爵邸は、夕暮れの光を浴びて豪奢にそびえ立っていた。
けれど、あの屋敷を支えていた土台は、今この瞬間に完全に消滅した。
明日になれば、彼らは知ることになる。
自分たちが贅沢に飲み干していた美酒が、誰の血と汗によって注がれていたのかを。
「……さて、クラリス。君にはもう一つ、伝えるべき報せがある」
ギルバートが書類を鞄にしまいながら、真剣な眼差しを私に向けた。
「報せ、ですか?」
「ああ。君が侯爵家との婚約を解消した暁には、ぜひ話を通したいと、以前から私に打診されていた方がいる」
兄の言葉に、私はわずかに首を傾げた。
破談になったばかりの身となる公爵令嬢に、一体誰が。
「……王弟殿下であり、近衛総督兼外務卿のアルフレート公爵閣下だ」
その名を聞いた瞬間、私の息が止まった。
アルフレート・フォン・ヴァルハイト。
現国王陛下の実弟にして、若くして王国の外交と軍権を掌握する最高権力者。
感情に流されず冷徹に国益を追求する姿から、社交界では『氷の宰相』と恐れられている殿下だ。
「殿下は、君が過去五年間にわたり侯爵領を再建した手腕を、極めて高く評価しておられる。……いや、それだけではないな。『あの男の足元に咲かせておくには、あまりに惜しい花だ』と、以前から君のことを見ておられたよ」
兄が意味深に微笑む。
私は胸元に手を当てた。
かつて王宮の式典ですれ違った際、氷のように鋭く、けれどどこか熱を含んだ青灰色の瞳で見つめられた記憶が蘇る。
「殿下は建国記念夜会で、君をお待ちだ。……正式に、外務省の特命全権補佐として君を迎え入れたいそうだ」
「……私が、外務省の……」
「君の居場所は、あんな男の狭い鳥籠ではないよ、クラリス。君の知性と誇りは、この国の中心でこそ輝くべきだ」
兄の温かな言葉が、冷え切っていた私の心にじんわりと染み込んでいく。
私は窓の外を見つめた。
街灯が灯り始めた王都の街並みが、美しく後ろへと流れていく。
三日後の建国記念夜会。
愛する男爵令嬢の手を取り、得意満面で王宮に現れるであろう元婚約者。
そして、自分たちの足元がすでに底なし沼に沈んでいることすら知らずに笑う二人。
――ええ、どうぞお幸せに。
私が二度と振り返ることのない、惨めな暗闇の中で。
私の人生の本当の幕は、ここから上がるのだから。




