第4話
辺境伯様の返書は、受領記録の写しを添えて、翌朝の早馬で王都へ発った。
同盟にかかわる記録は、陛下の書記局にも一部届ける決まりなのだという。
ひと月ほどして、知らせが来た。
同盟の更新は、殿下ご自身がヴェルクへ出向いて行う。
陛下の侍従がひとり、それに付き添う、と。
会談の条文案と議事の書類は、私が清書した。
辺境伯家の決まりどおり、末尾には書記官として名を添えた。
先に届けたその束を、侍従のエドガー・ベルク様は、会談の資料として受け取ってくれていた。
殿下が着いたのは、雪の深い日の昼すぎだった。
広間の長机につくなり、殿下は議題を待たずに言った。
「リディアを返してもらおう」
記録係の小机で、私はペンを止めた。
「伯は受領記録まで添えて、私の手紙が以前と食い違うなどと書いてきた。まるで書いた者がほかにいるような口ぶりだ。どうせ、その女の入れ知恵だろう。連れて帰って、二度とつまらぬことを吹きこませないようにする。言っておくが、手紙は三年間、私が書いていた」
違います、と喉まで出かかった。
けれど、声にはならなかった。
十六の春に交わした約束が、まだ舌の裏に貼りついていた。
辺境伯様は黙って、あの古い木箱を机に置いた。
ふたを開け、いちばん上の新しい封筒と、その下の一通を並べる。
「殿下。こちらも、殿下がお書きになったものですか」
「当然だ。今度のは、わざわざ自分の手で書いてやった」
ベルク様が身を乗り出して、二通を見比べた。
署名は同じ字だった。
本文だけが違った。
侍従は何も言わずに、手もとの書類の束へ目を落とした。
「では、もうひとつだけ」
辺境伯様の声は、いつもと少しも変わらなかった。
「二年目の春、私は返書の末尾に、職務と関わりのない問いを一行だけ書きました。殿下は次のお手紙で、それに答えてくださった。何とお答えになったか、覚えておいでですか」
殿下の口が、わずかに開いた。
「……礼を述べたはずだ。そんなものを、いちいち覚えてなどいない」
広間が静まりかえった。
暖炉の薪がはぜる音が、やけに大きく聞こえた。
辺境伯様は、そこで初めて私のほうを見た。
私の名前は呼ばなかった。
「答えるかどうかは、あなたが決めていい」
それだけだった。
私は膝の上で、両手を握りしめた。
離宮の王妃様からの返事は、今日になっても届いていない。
許しをもらってから口を開く道は、もう残っていなかった。
黙っていれば、誰も傷つかないと思っていた。
三年間、それが私の誇りだった。
でも、いまここで黙ったら、三年前の冬に北の町へ薬草を呼んだあの手紙は、薬草のことなど知らないと書いた人のものになる。
私の沈黙が守るのは、もう誰でもない。
嘘だけだ。
私は立ち上がった。
「その手紙を書いたのは、私です」
声は、思っていたより小さかった。
それでも、最後まで出た。
「辺境伯様の一行は、こうでした。職務と関わりのない問いをひとつだけ許してほしい。殿下は、手紙を書くのがお好きですか、と」
殿下が、こちらを振り向いた。
婚約者だったあいだ、この人がこんなにまっすぐ私を見たことは、一度もなかった。
「私は次の手紙に、こう返しました。好きです。口に出せば消えてしまう言葉も、紙の上でなら残ってくれるので」
「私が書いた一行も、そのとおりです」
辺境伯様が、静かに言い添えた。
ベルク様が木箱に手を伸ばした。
二年目の春の日付がある封筒を抜き出し、黙って目を走らせる。
やがて小さくうなずくと、私が清書した書類を一枚、その手紙の隣に置いた。
並んだ二枚の本文は、同じ字だった。
清書の末尾には、私の名前があった。
「殿下」
侍従は懐から、封蝋のついた一通を取り出した。
「陛下からお預かりしております。殿下の振る舞いが同盟を損なうと判じたときは、辺境にかかわる外交の権限を停める、と。本日をもって、そのようにいたします。更新の協議は、陛下に代わって私が続けます」
殿下は何か言いかけて、やめた。
助けを探すように広間を見回したけれど、そこにはもう、殿下の代わりに手紙を用意してくれる人はいなかった。
会談はそのまま、侍従と辺境伯様のあいだで続いた。
私は小机に戻って、議事の記録を書き進めた。
さっきの発言の欄に、名前を書き入れる。
発言者、書記官リディア・ハーヴェル。
約束を破ったのだと思う。
それなのに、ペンを握る指先は温かかった。
三年間、紙の上でしか言えなかった言葉を、私は初めて、自分の声で言ったのだ。




