第5話
協議は、それから三日続いた。
私は毎日、記録係の小机で議事を書きとめた。
発言者の欄に自分の名前を書くとき、二度目からはもう、手が震えなかった。
四日目の朝、更新の条文に署名がなされた。
ベルク様が陛下の名代として、辺境伯様が領主として、それぞれ名を書く。
冬の薬草の便を、これからも毎年北へ送る。その一条も、新しい条文に入っていた。
清書したのは私で、末尾にはいつものように、書記官として名を添えた。
殿下と侍従は、その日の昼に発った。
馬車に乗りこむとき、殿下は一度もこちらを向かなかった。
広間で私をまっすぐ見たあの目は、もう別のところを見ていた。
出立の前に、私はベルク様に一通の手紙を託した。
離宮の王妃様に宛てたものだ。
三年前の約束を、自分の判断で破ったこと。お詫びはするけれど、取り消すつもりはないこと。
それだけを書いて、末尾に自分の名前を記した。
「確かにお預かりします」
侍従は封筒の裏を見て、少しだけ目を細めた。
「差出人のお名前どおりに、お届けしましょう」
返事が来るかどうかは、わからない。
許してもらえなくても、それでいいと思えた。
許しを待たずに口を開いたのは、ほかでもない私なのだから。
その夜、自分の机に戻ると、封筒がひとつ置かれていた。
辺境伯様が作ってくれた木のインク台に、立てかけるようにして。
宛名には、リディア・ハーヴェル殿、とあった。
見慣れた字だった。
三年間、王妃様の手を通って届くたびに読んできた、少し右へ傾いた角ばった字。
けれどその字が、殿下ではなく私の名前を書いているのを見るのは、初めてだった。
封を切る指が、うまく動かなかった。
「リディア・ハーヴェル殿。
口で言うと、うまく伝わらない気がする。だから書く。
三年のあいだ、私は名前を知らない相手に返事を書いてきた。あの手紙があったから、私はこの土地の者たちに、王家を信じていいと言えた。
これからは、あなたの名前に宛てて書きたい。
職務と関わりのない問いを、もう一度だけ許してほしい。
書記官としてではなく、私の妻として、ここにいてもらえないだろうか。
返事は急がなくていい。どんな答えでも、あなたの机はこのまま置いておく。
アルノルト・グラーツ」
読み終えて、もう一度最初から読んだ。
三度目は、途中で字がにじんで、先へ進めなくなった。
返事を書こうと、ペンをとった。
殿下の名前で書いた手紙は、三年間、一度も書き損じたことがなかった。
それなのにその夜は、三枚も紙を無駄にした。
誰かの代わりに書くのは得意だった。
自分の気持ちを、自分の名前で書いたことが、ほとんどなかっただけだ。
四枚目で、ようやく書けた。
「アルノルト・グラーツ様。
職務と関わりのない問いに、お答えします。
はい。
三年間、私は人の名前で、あなたに手紙を書いてきました。これからは、私の名前で書きます。
受け取っていただけますか。
リディア・ハーヴェル」
封をして、廊下に出た。
朝まで待つべきだったのかもしれない。
でも、待てなかった。
辺境伯様の執務室には、まだ明かりがついていた。
扉を叩くと、その人は書きかけの書類から顔を上げ、私の手もとの封筒を見て、そのまま動かなくなった。
私は黙って、それを机に置いた。
大きな手が封を切る。
短い手紙だから、すぐに読み終わるはずだった。
なのに辺境伯様は、ずいぶん長いあいだ、紙から目を上げなかった。
やがて、小さく息をつく音がした。
「……声でも、聞かせてもらえるだろうか」
耳の先が、暖炉の火よりも赤かった。
口に出せば、言葉は消えてしまう。
ずっとそう思って、紙の上にばかり言葉を残してきた。
でも、この人の前でなら、消えてもかまわないと思えた。
消えたら、また言えばいい。
「はい」
今度は、自分の声で答えた。
紙に書いた返事は、机の上に残る。
声にした返事は、すぐに消えてしまう。
それでも私は、何度でも言えばいいのだと思った。
どちらの言葉にも、もう私の名前がついているのだから。




