第3話
ヴェルクに着いたのは、王都を出て九日目の夕方だった。
城門をくぐったとたん、灰色の空から白いものが降りてきた。
今年の初雪だと、御者が教えてくれた。
翌朝、通された書記室には、新しい机がひとつだけ置かれていた。
窓ぎわで、暖炉にいちばん近い場所だった。
インク壺の下には、手のひらほどの木の台まで敷いてある。
「冷えると、インクが固まる。台があれば少しはましだと聞いた」
辺境伯様はそれだけ言って、すぐに出ていった。
あとになって、年かさの書記官がこっそり教えてくれた。
あの台は、閣下が夜にご自分で削っておられたのですよ、と。
追加便の残りは、道中で片づけておいた。
宿の小さな机で商会あての確認を二通書き、先に早馬で送ってあったのだ。
ヴェルクに着いて二日目、返事がそろって届いた。
どちらの商会も、峠が閉じる前に荷を出すと約束してくれた。
荷が城下に入った日、私は書類を持って施療院へ行った。
薬草の袋を数え終えた年配の女の人が、受領書の末尾を見て手を止めた。
「ハーヴェル書記官。……あなたが、この便を手配してくださった方?」
そこには私の名前があった。
辺境伯家では、書いた者が名を添える決まりだという。
「はい」
たったそれだけを答えるのに、少し勇気が必要だった。
「ありがとう。うちの孫もね、三年前の冬に咳で寝こんだのよ」
その冬の手紙を書いたのも私です、とは言わなかった。
言わなくても、よかった。
三年間、私は同じことをしてきた。
違うのは、紙の端に自分の名前があることだけだ。
それだけで、お礼の言葉が回り道をせず、まっすぐ私のところへ届いた。
書記室でも、似たようなことが続いた。
私がまとめた追加便の一覧を見て、年かさの書記官は「これなら新入りでも迷いませんな」と笑い、写しを三部作らせた。
褒められても、どう返せばいいのかわからない。
黙って頭を下げると、通りかかった辺境伯様が「それでいい」と言った。
何がいいのかは、教えてくれなかった。
王都から一通の手紙が届いたのは、それから十日ほどたったころだ。
ヴェルクへ戻ってすぐ、辺境伯様は同盟更新の日取りを尋ねる手紙を、王太子殿下へ送っていた。
ご自分の手で、ずいぶん時間をかけて書いていたのを覚えている。
その返事だった。
執務室に呼ばれると、机の上に古い木箱がひとつ、ふたを開けて置かれていた。
中には見覚えのある封筒が、日付の順にきちんと重ねてあった。
王家から届いた三年分の手紙を、この人は一通も捨てずにいたのだ。
その横に、真新しい封筒が一通。
「読んでくれ。書記官として」
開いたとたんに、わかった。
一行目から最後の行まで、殿下の字だった。
三年間、手紙の末尾にだけ見てきた、あの右へ上がっていく癖のある字。
季節のあいさつはなかった。
宛名は「グラーツ伯」となっていて、辺境の二文字が抜け落ちていた。
同盟の更新は王都の都合で決めるので、追って知らせる。
薬草の件とやらは、こちらのあずかり知らぬことだ。冬が来るたびに物をねだるのは控えるように。
そして最後に、こう添えてあった。
元の婚約者を書記官に雇ったそうだが、物好きなことだ、と。
読み終えても、しばらく顔を上げられなかった。
腹が立ったのではない。
ただ、恥ずかしかった。
この手紙が施療院のあの人の目に触れたらと思うと、胸の底がしんと冷えた。
三年のあいだ、私は書く側にいた。
北の町で王家の手紙がどんなふうに開かれ、どんな顔で読まれるのか、わかっているつもりだった。
けれど、受け取る側に立ってみて初めて知った。
たった一枚の紙で、人はこんなにもたやすく「見捨てられた」と感じてしまう。
「前の三年分と、同じ方が書いたとは思えないな」
辺境伯様は、箱から一通を抜き出し、新しい手紙の隣に並べた。
署名は、どちらも同じ字だった。
本文だけが、まるで別人のものだった。
彼はそれ以上、何も言わなかった。
私のほうを見ることも、私の名前を口にすることもなかった。
あの夜の約束を、黙って守ってくれているのだと思った。
「事実の確認だけ頼みたい。返事は、私が書く」
「三年分の薬草の受領記録が、この城の書庫に残っているはずです。日付と量をそろえて、写しを作ります」
「ならば、それを添えよう」
彼は新しい手紙を、三年分の封筒のいちばん上にそっと重ねた。
捨てずにしまうのですかと尋ねると、短い答えが返ってきた。
「比べる日が、来るかもしれない」
その夜、書庫の灯りの下で受領記録を写しながら、私は何度も殿下の字を思い返していた。
署名のときにだけ見ていたあの字が、本文を書くとああなるのだと、婚約者だったあいだには一度も知らなかった。
離宮の王妃様からの返事は、まだ届かない。
約束も、まだ私の中に残っている。
それでも、写しの末尾に自分の名前を書き入れる手は、もう少しも震えなかった。




