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婚約破棄されたので王宮を去ります。三年間、殿下の名前で辺境へ手紙を書いていたのが私だったことは、どうか誰も気にしないでください  作者: mizuhashi


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第2話

黙りこんだ私を見て、その人は小さく息をついた。


「すまない。名乗るのが先だった」


外套の胸もとに手を当てて、短く頭を下げる。


「アルノルト・グラーツ。北の国境を預かっている者だ」


グラーツ辺境伯。


三年のあいだ、封筒の表に何度も書いてきた名前だった。

その持ち主が、いま目の前に立っている。

手紙の向こうにいた人は、思っていたよりずっと大きかった。


「同盟の更新を前に、陛下へご挨拶に来ていた。……と言えば聞こえはいいが、半分は口実だ」


「口実、ですか」


「人を探しに来た。あの手紙を書いた人を」


彼は手にした覚え書きに目を落とした。


「三年前の冬、私の城下のヴェルクで咳の病が流行った。正直に言えば、あのころの私は王家を信じていなかった。都の人間に、山の冬はわからないと思っていた」


「だが、あの手紙はわかっていた。どの薬草を、どれだけ、どの峠が雪で閉じる前に送ればいいか。読んで、この人は本気でこちらを見ていると思った」


それから、去年の謁見の話をしてくれた。


最初の冬の手紙に書かれた一節のこと。

この薬草は、祖母が咳をする子に蜂蜜で煎じてくれたものです、と。

彼はそれを殿下のお祖母様の思い出だと思い、謁見の席で礼を伝えたのだそうだ。


私は思わず、手提げの紐を握りしめた。

それは、私の祖母のことだった。


「殿下は、何の話だという顔をされた。すぐに王妃様がとりなされたが」


彼はそこで言葉を切った。


「それで、書いたのは殿下ではないとわかった。誰なのかは、今夜まで見当もつかなかった」


否定しなければ、と思った。

知らないふりをすれば、それで済む。


十六の年、王妃様のお部屋で言われた言葉がよみがえる。

誰がこの手紙を書いているのか、あなたの口からも筆からも、決して明かしてはなりません。

私は迷わずうなずいた。

見えないところで支えるのが、私に与えられた役目だと思ったから。


けれど、嘘をつくための言葉も、喉の奥で固まって出てこなかった。


「……私からは、何も申し上げられません」


やっと絞り出せたのは、それだけだった。


辺境伯様は、責めるような顔をしなかった。


「答えなくていい。誰かと約束をしているのだろう。それを破らせるつもりはない」


少し間を置いて、彼は続けた。


「あなたの許しなく、あなたの名を誰かに話すこともしない。ただ、礼だけは言わせてほしい」


大きな体が、深く折れた。


「あの冬を越せた子どもが、ヴェルクには大勢いる。ありがとう」


胸の奥で、固く結んでいたものがほどけた。


「もうひとつ。こちらは手紙とは関係のない話だ」


辺境伯様が、覚え書きを軽く持ち上げた。


「追加便は、まだ終わっていないのだろう」


「はい。商会への確認が二つと、峠が閉じる前の期日が残っています」


自分でも驚くほど、すらすらと声が出た。

仕事の話なら、言葉は喉で止まらないらしい。


「この一枚は、私の城のどの書記官が書くものより的確だ。だから頼みたい。辺境伯家の書記官として、ヴェルクで続きを仕上げてくれないか」


一拍おいて、彼は付け足した。


「今度は、あなた自身の名前で」


求婚ではなかった。

仕事の申し出だった。

それが、なぜかとても嬉しかった。


「私は、殿下に婚約を破棄されたばかりの身です。すぐに辺境へ参れば、どんな噂が立つかわかりません。父にも、相談しなければ」


「噂は私が引き受ける。私が欲しいのは、この字を書く人の仕事だ」


彼は覚え書きを、私の手のひらにそっとのせた。


「三日、王都にいる。出立の朝まで待とう」


屋敷に帰ると、父はまだ起きていた。

夜会の顛末は、もう誰かから聞いていたらしい。

控えめな文官の父は、辺境伯様の申し出を最後まで黙って聞き、ひとつだけ尋ねた。


「誰かに頼まれたからではなく、お前が行きたいのか」


そう聞かれて、初めて気づいた。

婚約も、代筆も、私が自分で選んだものではなかった。


「……行きたいです」


声にしてみると、思っていたよりずっとはっきり響いた。


翌日、離宮の王妃様へ手紙を書いた。

お役目を終えたこと。

追加便の手配は、受け取る側から続けること。

約束のことには、一行も触れなかった。


三日後の朝、霜の降りた通りで、辺境伯様の馬車が待っていた。


遠ざかる王宮の尖塔を、私は振り返らなかった。


膝の上には、あの覚え書きが一枚。

その隅に、小さく自分の名前を書き入れた。


仕事の紙に添える、初めての私の名前だった。

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