第1話
「リディア・ハーヴェル。君との婚約は、今夜かぎりで破棄する」
楽団の音が、ふっと途切れた。
晩秋の夜会。
シャンデリアの真下で、セドリック殿下が私を指さしていた。
その腕には、淡い桃色のドレスの令嬢が寄り添っている。
男爵家のミリエ様だった。
「理由は言うまでもないだろう。君は地味で、可愛げがない。笑いもしない。三年も隣にいて、君が何を考えているのか、私には一度もわからなかった」
広間じゅうの視線が、いっせいに私へ集まる。
扇の陰のささやき。こらえきれずに漏れる笑い。
驚かなかったと言えば嘘になる。
二人の噂は、ひと月ほど前から耳に入っていた。
それでも、こんなに大勢の前で告げられるとは思っていなかった。
ただ、不思議なことに、
胸に真っ先に浮かんだのは自分のことではなかった。
まだ手配の途中だった、冬の薬草のことだった。
私は昔から、話すのが下手だ。
言いたいことは、声になる前に喉の奥で固まってしまう。
そのかわり、紙の上でなら素直になれた。
だからこの三年、黙って働いてきた。
誰にも見えない場所で支えることが、私の務めであり、ひそかな誇りだった。
「……承知いたしました」
そう答えると、殿下は拍子抜けしたように眉を上げた。
「泣きもしないのか。そういうところだ」
ミリエ様が殿下の袖を引いて、くすりと笑う。
「リディア様って、ほんとうにお人形みたいですね」
悪気はないのだと思う。
感じたことが、そのまま口からこぼれてしまう方なのだろう。
私は扇を閉じ、手提げから一枚の紙を取り出した。
夜会に来る前、念のために書いておいたものだ。
「殿下。最後にひとつだけ、お願いがございます」
「何だ。今さら泣きつくつもりか」
「いいえ。辺境伯様への書簡の、引き継ぎをお願いしたいのです」
紙には、冬の薬草の追加便について、残っている手配と期日だけを書いた。
どの商会に、いつまでに、何を確かめればよいか。
それ以外のことは、一行も書いていない。
自分の名につながることは、書かない。
十六の年に、王妃様とそう約束していたから。
その王妃様は、夏から離宮で静養されている。
いま王宮で、あの手紙の続きを気にかけられる者は、私のほかにいなかった。
殿下は紙に目を落とすことさえせず、鼻で笑った。
「書簡? あれは母上のところで用意されるものだろう。私は署名するだけだ。署名するだけのものに、何の引き継ぎがいる」
差し出した紙を、指先でぱしりと払われた。
紙は小さく宙を舞って、磨き上げられた床に落ちた。
その場で拾う人はいなかった。
私も、拾えなかった。
身をかがめたら、そのまま二度と顔を上げられなくなる気がした。
「お目汚し、失礼いたしました」
膝を折って礼をし、私は広間に背を向けた。
笑い声が背中に刺さる。
それでも、足だけは止めなかった。
王宮の廊下は長い。
この三年、数えきれないほどここを往復した。
書き上げた紙を胸に抱えて、殿下の執務室へ。
署名の入った紙を抱えて、王妃様のお部屋へ。
あの紙の重みを、殿下は一度も知らなかった。
知らないままでいい、と思っていた。
それが誇りだった。
そのはずだった。
なのに今夜は、どうしてこんなに指先が冷たいのだろう。
馬車寄せに出ると、冷えた夜風が頬を打った。
迎えの馬車を待つあいだ、手袋を外して、自分の右手を見た。
中指の内側に、薄くインクの染みが残っている。
いくら洗っても落ちなかった、三年分の染みだ。
「失礼」
低い声がした。
振り向くと、見上げるほど大柄な男の人が立っていた。
夜会服の上に、旅装のような厚い外套。
日に焼けた顔に、見覚えはない。
王都の貴族とは、まとう空気がどこか違っていた。
その大きな手に、白い紙が一枚。
さっき床に落ちた、私の覚え書きだった。
「広間に残っていた。あなたのものだろう」
「……ありがとうございます。でも、もういらないものですから」
受け取ろうと伸ばした手が、途中で止まった。
その人が、紙から目を離さなかったからだ。
まるで、何度も読み返した手紙を、もう一度確かめるみたいに。
「いらないものではない」
彼は顔を上げ、まっすぐに私を見た。
「あなたの字だ。冬の薬草を手配してくれたのは、あなただろう」
息が止まった。
三年間、誰にも気づかれなかった。
気づかれてはいけなかった。
なのにこの人は、私の字を知っている。
馬車の灯りが、夜風に揺れていた。
紙の上ならいくらでも並べられる言葉が、
声にしようとすると、ひと文字も出てこなかった。




