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バビロンの謎―七つの星門と失われた王国  作者: 虫松


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第5話 月の封印、死者の夢

月の塔


バビロン中心部。


白銀の塔の頂上に、巨大な月の円盤が浮かんでいた。


塔の内部には数百人の人間が横たわっている。


商人。


兵士。


奴隷。


子供。


彼らの頭には銀色の冠が取り付けられ、全員が穏やかな笑みを浮かべて眠っていた。


その中心に立つ白い仮面の神官が、両手を広げる。


「人は現実に苦しむ」


「ならば、幸福な夢の中で生かせばよい」


ナディアもまた、塔の中で目を閉じていた。


彼女が見ているのは、崩壊前のバビロン。


優しい父。


笑う母。


王宮の庭を走る幼い自分。


誰も彼女を王家の鍵として利用しない世界。


誰も死なない世界。


「ナディア」


母が手を差し出す。


「もう逃げなくていいのよ」


幼いナディアが、その手へ近づいていく。


しかし、現在のナディアは涙を流しながら呟いた。


「母は……そんなことを言わない」


景色に亀裂が走る。


母の笑顔が固まる。


「母は最後に言った」


「逃げなさい、と」


ナディアは首飾りの刃で、自分の掌を切った。


痛みが夢を破る。


王宮が崩れ、彼女は月の塔の中で目を覚ました。


「アントニウス……!」


その隣では、ルキウスも夢に囚われていた。


ルキウスが望んだローマ


ルキウスの前には、理想のローマが広がっていた。


元老院に腐敗はない。


民は飢えていない。


軍団は完全な規律を保ち、国境には敵一人いない。


皇帝の玉座には、ルキウス自身が座っていた。


民衆が彼の名を叫ぶ。


「ルキウス!」


「ローマの救世主!」


「永遠の皇帝!」


彼の隣にはアントニウスが立っていた。


裏切りも対立もなかった。


二人は再び同じ帝国のために戦っている。


幻のアントニウスが問いかける。


「これがお前の望みなのか?」


ルキウスは玉座から都市を見下ろす。


「争いのないローマ」


「腐敗のないローマ」


「誰も飢えない帝国」


幻のアントニウスが笑う。


「そのために、誰から選ぶ力を奪った?」


ルキウスの視線が止まる。


広場に集まる民衆。


誰もが同じ角度で笑い、同じ声で歓声を上げている。


子供も老人も、まったく同じ顔だった。


「我らは幸福です」


「我らは幸福です」


「我らは幸福です」


ルキウスは剣を抜いた。


「私はローマを救いたい」


玉座へ剣を突き立てる。


「人形の国を作りたいわけではない!」


黄金の宮殿が砕け散った。


アントニウスは、死んだ部下たちに囲まれていた。


マルクスがもう一度、杯を差し出す。


「ここに残れば、すべてやり直せます」


「今度は俺たちを死なせずに済む」


アントニウスは杯を受け取った。


兵士たちの顔に笑みが広がる。


アントニウスはしばらく杯を見つめていた。


そして、酒を地面へ捨てた。


「これは夢だ」


マルクスの表情が消える。


「違います」


「お前は死んだ」


「みんな死んだ」


「違う!」


周囲の兵士たちが一斉に叫ぶ。


「あなたがそれを認めなければ、俺たちは生きられる!」


アントニウスは剣を抜いた。


「私は、お前たちを忘れたくない」


「だからこそ、偽物と一緒にはいられない」


マルクスの姿が、黒い影へ変わり始める。


「また俺たちを殺すのですか?」


「違う」


アントニウスは涙を堪えながら答える。


「今度こそ、別れを告げる」


マルクスへ剣を向ける。


しかし、その切っ先は震えていた。


「隊長」


一瞬だけ、マルクスが昔の穏やかな表情に戻る。


「生き残ってくれて、よかった」


アントニウスの目が見開かれる。


「俺たちの死を背負う必要はありません」


「あなたは、あなたの戦いを続けてください」


アントニウスは歯を食いしばり、剣を振り抜いた。


光が野営地を切り裂く。


戦友たちの姿が、星の粒となって消えていく。


最後にマルクスが敬礼した。


「さらばです、百人隊長」


アントニウスも剣を胸へ当てる。


「さらばだ」


夢が崩壊した。


月の封印


アントニウスは白銀の塔で目を覚ました。


目の前には白い仮面の神官が立っている。


「なぜ目覚めた?」


「幸福な過去を与えたはずだ」


アントニウスは立ち上がる。


「過去は幸福だから価値があるんじゃない」


「戻れないから、人は前へ進む」


神官が腕を上げる。


眠っていた者たちが一斉に起き上がり、アントニウスへ襲いかかる。


彼らはまだ夢を見ている。


笑顔のまま、武器を振るう。


ナディアが粘土板を掲げ、古代語を唱える。


床に刻まれた楔形文字が青く輝いた。


「アントニウス!」


「塔の中心にある月の鏡を壊して!」


しかし、月の鏡の前にルキウスが立ちはだかる。


剣を抜き、アントニウスへ向ける。


「待て」


「この力は利用できる」


アントニウスは睨み返す。


「まだそんなことを言うのか」


「敵国の王や反乱軍に夢を見せれば、戦わずに勝てる」


「兵士を死なせずに帝国を守れる」


「そして、夢から戻れなくなった者はどうする?」


ルキウスは答えない。


「そのうち、お前はローマの民全員に同じ夢を見せる」


「争いのない理想の帝国という夢をな」


ルキウスの剣先が下がる。


「私を信じられないのか」


「信じているから言っている」


アントニウスは剣を収めた。


「お前はまだ、自分で選べる男だ」


長い沈黙。


やがてルキウスは月の鏡を振り返る。


そこには、皇帝となった自分の姿が映っていた。


ルキウスは低く呟く。


「見せる夢まで、塔に決められるのは気に入らんな」


剣を振り上げる。


アントニウスも同時に踏み込む。


二本の剣が、月の鏡へ叩きつけられた。


ガァァァンッ!


巨大な亀裂が走る。


ナディアが最後の古代語を叫ぶ。


鏡は無数の破片となって砕けた。


空に浮かんでいた満月が割れる。


都市全体に響くほどの轟音とともに、白銀の塔の光が消えた。


眠っていた人々が、次々と目を覚ます。


白い仮面の神官は絶叫し、その肉体を銀色の砂へ変えて崩れ落ちた。


塔の中央に、一枚の円盤が残る。


月の紋章が刻まれた、第一の封印。


ナディアがそれを拾い上げる。


「月の封印が解かれました」


アントニウスは塔の窓から、残る六本の塔を見た。


すると次の瞬間。


青緑色の塔、水星の塔から、無数の声が響き始める。


異なる言葉。


異なる民族。


異なる時代の声。


それらが次第に重なり、一つの声へ変わっていく。


「我らは一つ」


「言葉は一つ」


「意志は一つ」


ナディアの表情が強張る。


「水星の塔が目覚めました」


塔の下にあるバビロンの大通りでは、人々が突然立ち止まっていた。


商人も、兵士も、奴隷も。


全員が同時に同じ方向へ顔を向ける。


そして、まったく同じ声で呟いた。


「分かれているから、人は争う」


アントニウスは剣を握り直す。


その隣で、ルキウスが言った。


「次の塔は、夢より厄介そうだ」


ナディアが水星の塔を見上げる。


「バベルの塔の本当の罪が、あそこに眠っています」


三人の前で、青緑色の光が天へ昇る。


七つの封印を巡る戦いは、まだ始まったばかりだった。

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