第4話 月の塔、死者たちの夢
青い門が完全に開いた。
その向こうに広がっていたのは、遺跡ではなかった。
滅びた都でもない。
空中庭園から無数の滝が流れ落ち、青い煉瓦の城壁が地平線の彼方まで続いている。黄金の獣像が大通りを見下ろし、天を貫く巨大な塔の周囲を、光る船がゆっくりと巡っていた。
失われたはずの王国。
伝説の都。
バビロン。
アントニウスは、門の前で言葉を失った。
十二年前、砂嵐の中で一瞬だけ見た青い城壁。
あれは幻ではなかった。
この都は、ずっと存在していたのだ。
ただ、世界から姿を隠していただけだった。
ナディアが震える声で告げる。
「ここが、神官たちの呼ぶ《新生バビロン》です」
ルキウス・カッシウスは、剣を構えたまま都市を見上げた。
「これほどの都を、ローマが見つけられなかっただと?」
「見つけられなかったのではありません」
ナディアは答える。
「同じ場所に存在していなかったのです」
アントニウスが振り向く。
「どういう意味だ」
ナディアは都市の中心を指した。
そこには七本の巨大な塔が立っていた。
一本一本が異なる色の光を放ち、空に浮かぶ巨大な星図と結ばれている。
白銀の塔。
青緑の塔。
紅紫の塔。
黄金の塔。
赤黒い塔。
深い青の塔。
そして、すべての光を吸い込む漆黒の塔。
「バビロンの中心には、七つの封印があります」
「古代の人々は、それぞれを天体の名で呼びました」
ナディアは一つずつ指差した。
「月」
「水星」
「金星」
「太陽」
「火星」
「木星」
「土星」
「七つの塔には、人間の世界そのものを変える力が封じられています」
ルキウスが鼻で笑う。
「塔が世界を変える?」
「神官の誇張ではないのか」
ナディアは彼を冷たく見つめた。
「あなたの兵士たちが、痛みも恐怖も感じずに戦ったのはなぜです?」
ルキウスの表情から笑みが消える。
「金星の塔が、彼らの忠誠心を増幅したからです」
「第九軍団が消えたのは、火星の塔が彼らの記憶を奪ったから」
「東方の村々で人々が同じ夢を見たのは、月の塔が目覚めたからです」
アントニウスは七本の塔を見上げる。
「七つすべてが開けば、何が起きる?」
ナディアは答えるまで、しばらく時間を要した。
「人間から、選ぶ力が失われます」
そのとき。
遠くから鐘の音が響いた。
ゴォォォン――。
七本の塔のうち、白銀の塔が輝き始める。
夜ではない。
それなのに空が急速に暗くなり、巨大な満月が都市の上へ現れた。
ナディアが叫ぶ。
「目を閉じて!」
しかし遅かった。
満月から放たれた白い光が、アントニウスたちを包み込んだ。
都市も、塔も、ナディアも消える。
最後に聞こえたのは、ルキウスの叫びだった。
「アントニウス!」
アントニウスが目を開ける。
そこはローマ軍の野営地だった。
夕暮れ。
焚き火。
兵士たちの笑い声。
肉の焼ける匂い。
酒の入った杯がぶつかる音。
見覚えのある場所だった。
十二年前。
アントニウスの部隊が全滅する、前日の夜。
「隊長!」
背後から声をかけられる。
振り向いた瞬間、アントニウスの呼吸が止まった。
若い兵士が笑っている。
名はマルクス。
アントニウスの副官だった男。
翌日、胸を槍で貫かれて死んだ。
その隣には、弓兵のガレオ。
盾兵のファビウス。
故郷に妻子を残していたティベリウス。
全員、死んだはずの戦友だった。
「どうしたんです、隊長?」
マルクスが酒杯を差し出す。
「幽霊でも見たような顔をして」
アントニウスは、差し出された杯を見つめた。
指先が震える。
「お前たちは……」
言葉が続かない。
ガレオが笑う。
「明日の偵察がそんなに心配ですか?」
「大丈夫ですよ。砂漠の向こうに敵なんていません」
ファビウスが豪快に肉を噛みちぎる。
「敵が出たら、俺たちが守ります」
「隊長はいつも通り、後ろで偉そうに命令していてください」
周囲から笑い声が上がる。
あまりにも懐かしい。
あまりにも自然だった。
アントニウスは、自分が何をしていたのか思い出せなくなる。
青い門。
ナディア。
ルキウス。
七つの塔。
すべてが、遠い夢のように薄れていく。
マルクスが隣へ座る。
「隊長。戦争が終わったら、どうするんです?」
「ローマへ戻る」
「それから?」
「分からん」
「だったら、俺の故郷へ来てください」
マルクスは笑った。
「葡萄畑があります」
「戦争なんか忘れて、毎日酒を造りましょう」
アントニウスは答えない。
それは、十二年前にも交わした会話だった。
しかし翌日、マルクスは死んだ。
葡萄畑へ帰ることはなかった。
「隊長」
マルクスの声が優しくなる。
「ここに残ってください」
焚き火の周囲にいた兵士たちが、一斉にアントニウスを見る。
笑顔のまま。
瞬きもせず。
「ここなら、誰も死にません」
「戦争もありません」
「あなたが命令を間違えることもない」
「あなた一人だけが生き残ることもない」
アントニウスの表情が凍る。
兵士たちの笑顔が、わずかに歪んだ。
「俺たちを見捨てた罪も、忘れられます」




