8.鶴姫襲来(1)
鶴姫が突然、鶴丸の住まいの庭先に現れてから、5日ほどが経った。
治右衛門一家は、何事もなかったかのように淡々と日々の営みを積み重ねていた。
鶴丸は、父に命ぜられれば共に小早舟に乗り込み。
何もなければ太郎次と武芸に励んだり、庭の野菜の手入れをしたりしていた。
この日は、渋柿が沢山取れた。
鶴丸と太郎次は、お寿の手伝いで柿の皮をせっせと剥いている。
「なあ、鶴よ」
「何じゃ」
「あれは、何だったのかのう」
「ん?」
「鶴姫様のことじゃ」
「……」
鶴丸は、思わず兄の顔を凝視した。
「何じゃ、その顔は」
「あ、いや。何でもない」
鶴丸は再び、渋柿に目を落とす。
鶴姫は、あれから姿を見せなかった。
当然と言えば当然のことだ。
大体、大祝家の姫である彼女が足軽の家に現れるなど、そもそもがありえない話だ。
ただ――。
(鶴姫様が、俺が生き別れた兄と知ったなら――)
鶴姫のあの気性だ。
もしかして、何か突拍子もないことをしでかすのではないか。
鶴丸の心の奥底に、そんな嫌な予感のようなものがじんわりと横たわっていた。
(いや)
鶴丸は、軽く首を横に振って、その考えを消しにかかる。
(鶴姫様は神職の娘。事の道理を弁えて下されよう)
畜生腹は不吉。
そこに、神の娘が関わってはならない。
しかし。
鶴丸の「嫌な予感」は、ものの見事に的中した。
治右衛門と共に海上警護に当たったその日の夕方。
「お母。戻った」
声を掛けざまに家に入った鶴丸の耳に、
「お帰り、鶴丸。待ちかねたぞ」
弾むような、少女の声が届いたのだ。
「えっ」
固まる鶴丸。
「鶴丸。さっさと入れ。後がつかえておるぞ」
「うわ」
呑気な治右衛門の声と共に、鶴丸は家の中へと押し出された。
そして。
「むっ」
治右衛門も、瞠目する。
「おお、治右衛門か。役目大儀である」
あろうことか。
粗末な板張りの部屋に、鶴姫がどっかりと腰を下ろしていたのである。
「こ、これは、鶴姫様」
治右衛門は、慌てた様子で片膝をついて畏まった。そして、
「これ、鶴丸!」
ぼんやりと突っ立っている息子の裾を引いた。
「あっ……ははっ」
鶴丸は弾かれたように、父に倣って畏まる。
「ああ、両名とも。堅苦しい挨拶は無用。さ、楽に致せ」
「は、はあ……」
(どうして、このお方がここに?)
(さあ……?)
治右衛門と鶴丸は、困惑の視線を交わし合う。
「お前様。鶴姫様は小半時ほどこちらでお待ちでござりました」
奥から、のんびりとお寿が姿を見せた。
「なんと、それは誠でござりますか」
「まことじゃ。鶴丸が海に出ていると聞いた故、待たせてもらった」
「それは……知らぬこととは言え、申し訳ござりませぬ」
「いや、良いのじゃ。寿殿には、美味い餅を馳走になったしのう」
「なんと……あのような粗末なものを。お恥ずかしい限り」
「なんの。あの雑穀のぷちぷちした食感、実に楽しかった」
鶴姫は上機嫌だ。
「それで、待っている間に、鶴丸の幼き頃の話を聞かせてもらった。実に面白かったぞ」
「えっ」
鶴丸の顔が、不安に歪む。
一体お寿は、何を語って聞かせたのか……?
「して、鶴姫様。俺に、何か……?」
おずおずと問いかけた鶴丸に、
「我は兄に会いに来た。ただそれだけじゃ」
鶴姫は、実にあっけらかんと答えたものだ。
「……」
頭巾の中の鶴丸の顎が、ゆっくりと垂直に落ちた。
「さあ鶴丸。我に顔を見せてたもれ」
鶴丸の動揺など、どこ吹く風。
鶴姫はにこにことそんな要求を出してきた。
「は……しかし」
躊躇する鶴丸。
「鶴丸。鶴姫様のご所望じゃ。その顔見せてやれ」
治右衛門は諦め顔で促した。
「……」
鶴丸は仕方なく頭巾を外す。
露になった顔を、鶴姫はまじまじと見つめる。
(うう……)
鶴丸は、その強い視線にたじたじだ。
「あははっ」
ややあって、鶴姫は破顔した。
「見れば見るほど、我としか思えぬ。これは面白い!」
(面白い?面白いのか?)
鶴丸の困惑は、更に深まる。
鶴丸にとっては、この事態は面白くも何ともない。
率直な言葉で言えば、大迷惑だ。
「鶴丸。如何した?」
鶴姫は、怪訝そうに小首を傾げた。
ようやく、鶴丸の困惑振りに気が付いたようだ。
「あ……」
鶴丸は、ちらりと父の顔を見る。
治右衛門は、素知らぬ顔で正面を向いている。
(どうやら、親父は助けてくれなさそうじゃな)
鶴丸は、小さく溜息をついた。
そして。
(ええい、ままよ)
「畏れながら、鶴姫様」
鶴丸は、意を決して鶴姫に向き直った。
「鶴丸。我らは兄妹。我のことはお鶴でよい。姫様は余計じゃ」
「いいえ。それはなりません」
「なに?」
「あなた様は、畏れ多くも大祝様のご息女。俺は、これなる足軽・中津治右衛門が子息にござります」
「――そなた。何が言いたい?」
鶴姫の声音が、険しくなった。
「あなた様と俺とでは、住む世界が違うのです」
「それがどうしたというのじゃ。我はさようなことは」
「気にして頂かなければ、困ります」
鶴丸は、一層声を張り上げた。
これ以上言葉を重ねれば、鶴姫の不興を買うかもしれない。
それでもいい。
あなたは、二度と、俺の前に姿を見せてはいけない。
何故なら。
あなたは選ばれた御子で。
俺は、母の胎から産まれて来なかったことにされた子だから。
「鶴姫様。あなた様のようなお方が、かような貧しきところに出入りされるのは、決して褒められたものではありません」
鶴丸は、土間に両手をつくと、深々と頭を下げた。
「どうか以後、俺にお構い下さるな。鶴丸、伏してお願い申し上げます」




