7.月下の酒
空には、さやけき月が上がっていた。
その月が照らす海に、ぷかりぷかりと一艘の小舟が浮かんでいる。
小舟の上には、壮年の男が二人。
鶴丸の育ての父・治右衛門と、赤子だった鶴丸を託された弥次郎だ。
彼らは、穏やかな波に揺られながら、焼いた味噌を肴に酒を酌み交わしていた。
「――そうか。会うてしもうたか」
弥次郎は微かに眉を顰めた。
「うむ」
対する治右衛門はちびりと酒を舐める。
「このような日が来ぬことを願っておったが、向こうからやってきてしもうた故どうしようもないわ」
「ふふ。姫様は快活な御方故な」
「全く、じゃじゃ馬にも程がある」
治右衛門は苦々しく吐き捨てた。
「姫なれば、社に籠りて女子の道を往けばよいものを。何故遠乗りなど」
それがなければ。
鶴丸と鶴姫は、一生顔を合わせることなどなかったかもしれないのに。
「治右衛門。最早言うても仕方ないことじゃ」
弥次郎は、渋い顔のままの治右衛門を宥めた。
「弥次郎。頭ではわかっておるのだ。だが、どうにもここが納得出来ぬのさ」
治右衛門は、己の胸をトントンと叩いた。
「お主は、鶴丸を我が子同然に可愛がっておるからのう」
「当たり前じゃ」
「で、話して聞かせたのか」
「何をじゃ」
「鶴丸の、本当の親のことじゃ」
「話した。最早誤魔化せるものでもないと思うたのでな」
「まあ、あれだけ似ておればのう」
「鶴丸と鶴姫様はまさに瓜二つ。他人の空似と言うても納得するものではないわ」
治右衛門は、盃を煽った。
「治右衛門」
「何じゃ」
「お主には言うておらなんだが、安用様からは赤子を海に沈めよと命じられたのだ」
「なに――!」
治右衛門は息を呑んだ。
「儂は、大祝家の庭先に仕える身。故に、その時も言われた通りにするつもりであった」
「だが、沈めなかった――?」
「そうじゃ」
弥次郎はぺろりと焼き味噌を舐めた。
「弥次郎。何故じゃ」
「赤子を沈めようと海に出ようとしたところ、三島大明神がお怒りになったのじゃ」
弥次郎が言うには――。
赤子を抱いて、舟を出そうとしたまさにその時。
俄かに暗雲かき曇り。
次いで海から強い風が吹き初め。
静かだったはずの海が、まるで人が変わったかのように荒くれだし。
そして、びかびかと稲光が海に落ちた。
「――さような天候では、とても舟なぞ出せぬ。しかも、直前までは海は本当に静かじゃった」
「……」
「故に儂は――この子を殺してはならぬのではないか、と思ったのじゃ。殺さば必ず三島大明神が怒りをなし、大祝家に災厄をもたらすのではないか、と」
弥次郎は、感慨深げに水面を見つめた。
「畜生腹は不吉。故に、三島大明神は二人の御子のうちどちらかを捨つるところまではお赦しになった。じゃが、亡き者にしてはならぬとお示しになられたような気がしてな」
「それは、何故であろうかの」
「神には神のお考えがあるのであろうよ」
「所詮、人にはわからぬことじゃな」
「左様。気紛れかもしれぬしな」
治右衛門と弥次郎は、声もなく笑った。
「それで、お主は殺せなんだ子を儂に預けたのか」
「そうじゃ。お主ならば悪いようにはせぬと思うた故な」
「弥次郎。それだけではあるまい」
「うん?」
「この際、全て話せ」
「聞いて、怒らぬか?」
「聞いてみねばわからぬ」
「それでは話せぬわ。かような海の上で剣呑になるのはまっぴらじゃ」
「わかった。怒りは肚に収める」
「やれやれ。お主はまこと正直な奴じゃな」
弥次郎は、半ば呆れたように溜息をついた。
「治右衛門を腐すつもりはないが――」
弥次郎は、治右衛門の盃に酒を満たすと、訥々と語り始めた。
「治右衛門。お主は身分が低い。ただ一艘の小早舟を持つだけで、小者も雇えぬ足軽じゃ」
「耳の痛いことをはっきり言うのう」
「だから、言いたくなかったのじゃ」
「ははは、そうか。まあ良い。続けてくれ」
「うむ。治右衛門の身分では、どれほど武功を上げたとしても、せいぜい貰う銭が増えるだけじゃ」
「……」
「それに、お主の住まいもお社からは遠い。故に、あらゆる面で大祝様の目に留まることは、まずなかろうと考えた――つまりは、御子の預け先にはうってつけと思うたのじゃ」
「なるほど。言い得て妙じゃの」
治右衛門は、怒らなかった。
「治右衛門。今宵お主をここに誘ったのは、大祝様より突然のお尋ねがあったからじゃ」
「もしやして、鶴丸のことか」
「うむ。どうやら、鶴姫様が鶴丸のことを口にされたらしい」
「なんと。お転婆姫は戻られたその足で御父上に噛みつかれたのか」
「まあ、あの御気性ではな」
「確かに、我が庭先にて鶴丸に詰め寄られた折の気迫は凄まじかったぞ。あの鶴丸がたじたじであった」
「ほう。あの鶴丸がのう」
「突然のことに驚いたのもあろうが、あのような鶴丸は儂も久し振りに見た」
「ふふ。鶴丸の奴、さぞや度肝を抜かれたのじゃな」
「で、大祝様の話しじゃ」
「おおそうじゃ。大祝様は烈火の如くお怒りでな。弥次郎、これは如何なることじゃと厳しく問い詰められた」
「殺したはずの子が生きていたのじゃ。大祝様にとっては驚天動地であったであろう」
「まさにまさに」
「それにしても弥次郎。よう成敗されなかったのう」
「先ほど、お主に話した通りのことを申し上げたところ、渋々ながらもご納得されてな。あのお方の立場上、神意の可能性があらば、否やとは言えまいよ」
「神を頭に頂く大祝様が、神の怒りを買うなど――」
「あってはならぬからのう」
二人は「ははは」と声を立てて笑うと、同時に盃を煽った。
さやけき月は、二人の酒宴をただ静かに見守っている。




